今年読んだ本で印象に残ったもの。
『ぼけと利他』
今年は伊藤亜紗の作品をよく読んだ。ヴァレリーの研究を基礎に置く美学者なんだけど、古いタイプの哲学者だと思う。全盲の人たちや肢体欠損の人たちに混じってフィールドワークをする。最先端のテクノロジーを調査して身体の可能性を広げていく。「哲学者についての研究」が哲学なのではない。「哲学者が取り組む研究」が哲学であり、それは本来伊藤亜紗が実践しているようなものだろう。
彼女の作品で、一際印象に残ったのがこの『ぼけと利他』である。福岡にある宅老所「よりあい」の介護士(?)村瀨孝生との往復書簡。メールでのやりとりですね。村獺さんの「獺」の字が「カワウソ」の「獺」なのが漢字変換で出しにくい。「村瀬」じゃないのか。騙されてたぞ。
宅老所「よりあい」
ここ、変なところなんです。「託老所」ではありません。「わしはあんたらに何も託しとらんぞ」と叱られたので「宅老所」です。ゴミ屋敷のおばあさんに「ただ家で死にたいだけじゃ」と言われたので、近所のお寺で一緒に過ごすようになりました。それが「よりあい」の始まりです。
歳を取れば誰もがぼけます。そのぼけ方が人によって違うだけ。それを「認知症」という病名をつけ、生活から切り離し、人の目が届かない施設に隔離する。それはちょっと不自然じゃないでしょうか。今は介護している自分たちも、いつかは介護される側に回る。この当たり前が自然となるにはどうなるといいか。
「よりあい」の試みは新しい。理想的か、と言われたら、さあ、どうでしょう。結局「自分たちは介護している」という想いを捨てるところから始まっています。お年寄りのそばにいて巻き込まれる。巻き込まれてしまう。どうしようもない状況の渦中で「どうしようもないなあ」と思いながら、足掻いてみたり、流されてみたりで、とても不思議な「ぼけ」の空間が生まれてくる。介護される側も介護する側も「ぼけー」となっていく。いわゆる中動態空間。この空間が温かい。
そこにある絶妙な匙加減。言葉にしにくい処を伊藤亜紗は村獺さんから引き出していく。これが上手い。理論を持ち出さない。ただ、関係ありそうでなさそうなことを伊藤さんが自由連想する。こんな風景が想い浮かびました、みたいに。すると村獺さんも、そういえばこんなことがありました、と応える。やりとりの中から「よりあい」の姿が目前に浮かび上がってくる。
読み終わった本をもう一度読むことは少ないのですが、この本は二度読みました。どこにも「利他とは何か」みたいな明文化はされてないけれど、全体が「利他」なのです。ケアすることはケアされることである。その本質が底流を流れています。
へろへろ
「よりあい」成立の経緯が書かれています。お金は大事です。谷川俊太郎がこの活動に巻き込まれてしまうところが笑った。人に恵まれている。ロックである。