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「心理療法を語る」をゲーム分析する

言語ゲームとして心理療法はどんな構造になっているのか。

心理療法を語る

成田先生が分析的心理療法について語った講演集。

最近ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」がブームなので、その文脈で読んでしまいました。 成田先生、ごめんなさい。 でも「心理療法」は将棋やチェスのようなゲームとして扱えるんじゃないかな。 ルールについて書いてある本は多いですけどね。 達人の視点はそこにはない。 ゲームとしてもう一段上を見ている。

よくある心理療法の本って「定跡の話」だと思います。 「こうした手順で自分の行動をモニタリングしてもらいましょう」みたいな。 定跡に沿っているうちはトントンと先に進む。 それはそれで悪い話ではありません。 でももしその定跡通りに行かなかったら。

素人はそこで手詰まり。 プロはそこからが仕事。 正念場が日常茶飯事になっている。 将棋の「駒が、俺を使え、とささやいてくる」と同じ。 心理療法家もそんなゾーンで仕事するみたいです。 怪しいですね。 疑ってるんじゃないですよ。 怪しい世界。

自分が積み上げてきたセンスに信頼を置いている。 心の奥底から「声」がしてきて、それに従っている。 定跡から外れたときこそ勝負どころ。 そんな世界を成田先生は描いています。

言語ゲーム

言語ゲームとして見ると、成田先生の心理療法は「自律した大人になるゲーム」です。 成熟した個人に成長するプロセスとして心理療法を考える。

クライエントが未熟なわけではありません。 未成熟だから病気になるわけでもない。 未熟を見つけてトレーニングしようというのでもない。 ここが不思議ですね。 「自律した大人」という目標は明確なのに、それがどう治療になるかは曖昧としています。

どちらかというか、この目標はセラピストを規定するもの。 まずクライエントを「自律した大人になる存在」として扱う。 そしてセラピスト自身も「自律した大人」として振る舞う。 この2点の筋を通すために「自律した大人」という目標が立てられています。

クライエントを「さん」づけで呼ぶ。 きっとその人自身の思いがあるだろうと信じて話を聞く。 外から目線でその人を評価したりしない。 「大人」として扱うことで、人は「大人」として成長していく。 そういう言語ゲームです。

これは反対を考えればいいかな。 もし子ども扱いされたままの人がいたら、その人がどう振る舞おうと「子どもの振る舞い」になってしまう。 まあ、今はそうでもないと思いますが、学校で生徒を呼び捨てにしたり「ちゃん」づけで呼んだりする。 そういう場面に置かれると生徒は「子ども」の型にはめられてしまいます。 成長を阻害される。

大人とは何か

では「大人」とはどんなあり方のことか。

成田先生はいろいろ定義しようとしているけど、どれもハズしています。 欧米の価値観というか、男性中心社会に都合のいい発達観が混ざっている。 アメリカの心理学を持ち込むとこうしたことは起こりやすい。 そのまま読んではいけないところ。

成田先生が目標としている「大人」は、それぞれの講演で成田先生が示している態度のことです。 そう考えるとスッキリする。 自覚されてないようだけど。

心理療法においてセラピストは「大人」として振る舞わねばならない。 そのセラピストが講演するなら、その講演も「大人」としての講演です。 なので、成田先生自身の考察や論の進め方が「大人であるという言語ゲーム」を表しています。

それは何でしょう。 端的に書けば「葛藤を自分事として引き受ける」ですね。 葛藤に巻き込まれることで人は病気になるけれど、その葛藤を自覚し、それを自分の課題として引き受けると、病気として表現する必要はなくなる。 「葛藤を引き受ける」を「大人」と考えているから、成田先生自身もそれを実践して読者に提示しています。

現代という葛藤

では、その「葛藤」は何か。 片方は明示されています。 機械的身体観という近代の人間像です。 治療の場合だと、病気の原因を特定し、それを切除して代用物に置き換える方法。 自動車修理工の人が車の壊れた部品を見つけ、新しい部品に取り替えるのと同じデザイン。 これが社会にも拡張されて「専門家と利用者」の関係になっている。

反対を考えると「生命体としての身体」がありそうですが、そこは書かれていません。 でも成田先生が「生身の関係」として描くのはこちらのことでしょう。 「夫婦は夫婦になるのが目的であって、何か別の目的のために夫婦になるのではない」という例が挙がってますが、それは「機械的」ではない。 「生身」としか言えないものです。

成田先生が描く葛藤は「機械的人間観 vs 生身的人間観」です。 機械的人間観はデカルトの発明だけど、デカルトが言ったからそうなったんじゃなく、産業革命後の社会に潜んでいたのがそれだったのでしょう。 機械のメタファーで物事を読み取る。 細胞も一種の機械だし、宇宙も機械。 社会もまた機械として動いている。 それが現代社会を支えています。 無視はできない。

でも人間の「生身」にとっては違和感がある。 「生身」は情の通った交流を求めるし、魂の震える感動を探している。 そこをフロイトは「リビドー」と呼んだのであって、単なる「性欲」ではない。 「本当の気持ち」としか表現できない何か。 機械的な因果関係からこぼれ落ちてしまう「ソレ」を語る。 こちらもまた無視することはできない。

サイボーグ化する自己

現代社会に内在する「葛藤」が精神症状を生み出し、その「葛藤」を引き受けることが「治療」になる。 そうしたデザインの言語ゲーム。 それが成田先生の心理療法です。

でもこれ自体はルソーの「自然 vs 人工」の図式じゃないかな。 西洋では昔から続いていて「現代」に限ることではない。 誰もが暗黙のうちに受け入れている物語なので使いやすいし「どう社会を変えていくか」の社会参加に道を開いている。 それが心理療法の暗黙の前提になっています。 「病気」と向き合うことが「いい社会」への近道になる。

それでいて、こうした「大人」のイメージは、日本では戦後に作られたものかもしれません。 馴染みが薄い。 高度成長期に急速な工業化が進み、西洋に追いつこうとした。 「東洋 vs 西洋」の対立を「自然 vs 人工」に投影したものであって、実は平成あたりから消えてきてるんじゃないかとも思います。

「葛藤を引き受ける大人」なんて異様な価値観は一時的な現象に過ぎない。 レトロな雰囲気を醸している。 だって最近見かけない。 「高倉健」はもういないじゃない?

今の時代は「動物」と「機械」の融合体として自己イメージができてるんやないかな。 「葛藤」の形を取るよりは「サイボーグ」になっている。 コンクリートに囲まれ「コスパ」を生きる身体。 そうした「言語ゲーム」が展開されている。

いま「大人になる」とはどういうことか。 誰もが語ることを避けている。

まとめ

「それでもささやくのよ、私のゴーストが」。 全身義体化しても「生身」は残るのだろうか。 それともそれは「昭和」の人間だけだろうか。