Jazzと読書の日々

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「哲学史入門」からはじめよう

これは続きも気になります。

哲学史入門

哲学事典の編集を手がけてきた斎藤さんが、各界の哲学者にインタビューして哲学の歴史を浮かび上がらせる対談集。 メンバーが贅沢としか言いようがない。 しかも対談形式なので読みやすい。 さらに皆さん、伝統に対して反抗的。 倫理社会の試験でこんなこと書いたら落とされそうな読み筋ばかり。 いいねえ、これはいいねえ。

哲学の起源

いきなり納富先生だけど、そうそう、哲学者って難読苗字の人、多すぎません? あれはペンネームなんでしょうか。 それとも大学が採用するとき名前で決めてるんだろうか。

納富先生は「のうとみ」さんです。 熱量が違います。 これほどアツく古代ギリシアを語れる人はほかにいるのだろうか。 古代ギリシアからの転生者じゃないかと疑われる。 まず「哲学の起源は古代ギリシア」という前提からイチャモンをつけてます。 ヨーロッパ人のエゴですからね。 「フランスこそ古代ギリシアの直系だ」なんて時代錯誤も甚だしい。 そもそも何をもって「哲学」とするのか。

納富先生はそこを「起源を多元化する」という戦略をとります。 同じ「古代ギリシア」でも源泉はいくつかある。 ソクラテスを始まりとしない。 すると「なぜソクラテスを哲学の起源としてきたか」という疑問が湧く。 それをプラトンに身を置いて考えると、なるほど「ソフィスト」の存在なのか。 合点がいった。

当時はソフィストこそがメジャーな存在だった。 今で言う「ビジネス書」ですよね。 どういうコミュニケーションが人間関係を円滑にするか。 対立したときはどうマウントを取るか。 言葉は力であり、言葉によって真理はどうとでも操作できる。 彼らはトランプ的な「ポスト・トゥルース」を体現していた。

プラトンはそれを恐れた。 ソクラテスはマイノリティなわけです。 こちゃこちゃして結論が出ない。 もったいぶるばかりで何の役にも立たない。 挙げ句の果ては裁判で負けて死罪になってしまった。 いいところなしです。

でも「真理」をないがしろにすると魂が腐ってしまう。 口だけ達者な権力者が幅をきかせ民衆を扇動する世の中になります。 というか、なってます。 そことどう戦うか。 それがプラトンを「哲学」へと突き進めた原動力だった。

納富先生の「それは内なるソフィストとの戦いでもある」は、そうだよなあ、自分のことでもあるんだよなあ。 自分の頭で考えること。 それはしんどいし、誰かに任せてしまいたい。 そのほうが幸せじゃないかと思う。

でも、それだと「自分の人生」を生きていることにならない。

無知の知

納富先生、ソクラテスの「無知の知」を否定しちゃうんですね。 でもたしかに「無知」とは「知らないのに知ってるふりをすること」だからソクラテスの態度ではありません。 それで「不知の自覚」を提案しているのですけど、ここも深いなあ。

ソクラテスが焦点化しているのは「知る」と「思う」の違いです。 人は自分が「知っている」と考えているけれど、その「知っている」は「そう思っている」に過ぎない。 よくよく尋ねてみると、本当のところはわかってなくて「単なる思い込み」だったりする。 そこを対話によって検証しようということらしい。

これはあれかな。 アリストテレスが実践知に関して「知る」と「わかる」を区別してるけど、これが「思う」と「知る」の違いかな。 「知る」の位置関係が反対だけど。

たとえば引き算ついて「知ってる。数を引くことでしょ?」と答えることはできても、実際の引き算で答えが合わないなら「わかってる」とは言えない。 「わかってる」には身体的な側面というか、実際にやってみせることができることが含まれている。 孔子で言えば「学んで時にこれを習う」で、「学ぶ」は「知る」になるけど「わかる」には「習う」が必要になる。 「習う」には体に「馴らす」側面がある。 そこまで行かないと「わかる」にはならない。

いや、これだと「不知の自覚」じゃないなあ。 どうやら、この言葉にはパルメニデスが先行してるようです。 「あるはあるが、ないはない」と言ったパルメニデス。 これは女神から彼に送られた言葉で、そのあとに「でも人は、真理をわかったと思った瞬間それが思い込みになってしまう。そこを自覚なさい」と続く。

「知る」に安住すると「思い込み」に転落してしまう。 この人間の認知構造。 そこから抜け出すには考え続けるしかない。 そこがソクラテスの「不知の自覚」なわけです。

わー、なんて哲学的なんだ。

伝わった感

そしてポイントは斎藤さんの「ツッコミ」。 これが冴えてます。

無知の知でも意味が通ればいいんじゃないですか」とか「不知だというならイデアに行くのは変でしょう」と質問していく。 もちろん重々知っているはずです。 ずっと編集者をしてきて、ご自分でも「試験に出る現代思想」とか書いているくらいだから。 でもあえて「不知」を装う。 読者が聞きたくなるところを突っついてくれる。

返し方も上手いですね。 納富先生が解説したところを咀嚼して自分の言葉で要約する。 腑に落ちなければ疑問の湧くところを明確化する。 このテンポがいいから、納富先生はさらに進んだ仮説を繰り出せる。 話す側から見ると「伝わった感」が得られる。

「伝える」は話者だけでもできるけど「伝わる」は共同作業です。 ふたりで作り上げる思考空間。 このことを斎藤さんがエディターとして意識している。 だから読みやすい。

哲学史であるため、一人一人の哲学者には時間が割けません。 手短く要点を押さえないといけない。 でも、教科書的な解説ではつまらないです。 話し手は人生を賭けて「哲学界の常識」と戦っているのだから、その点を浮き彫りにする。 そんなインタビューの技術を駆使しています。

続く山内先生や伊藤先生のインタビューもそうですね。 中世やルネッサンスの哲学事情なんて、普通は軽く流されるところ。 でも先生方は命を賭けて研究している。 一生を費やすに値すると感じている。 それだけ大事なテーマが隠れているからです。

いったいそれは「何」なのか。

斎藤さんはそこに敬意を払い「その話」を聞こうとしている。 その態度がいいなあ。 だから、話している先生たちも浮かれています。 魂が沸き立つ。 どんどんサービスして自説を展開していく。 一般向けの本にはそんなこと書いてなかったじゃないですか。 そう言いたくなるような切り口がいっぱい出てきます。

「魔術とは、自然の中に隠された力を明るみに出す作業」という定義がルネッサンスのところで出てきます。 まったくその通りで、このインタビュー自体が「魔術」。

最近ストア派が流行ってるなあと思ってたけど、ストア派は「帝国時代」の哲学だからですね。 ローマ帝国に支配された世界で、人々は個人として無力を感じていた。 何もできない。 「変えることができるのは自分自身だけ」という寂しい哲学になる。

現代も同じように、社会的ストレスが問題視されながら、対処法となると個人の話にすり替えられる。 レジリエンスとかコーピングとか。 社会に潰されないためにそれも大事だけど、それだけでいいのだろうか。

ストア派で哲学が終わったわけではありません。 その先がある。 中世もルネッサンスも「考える人たち」がいて道を模索してきた。 その魅力がたっぷり語られています。

まとめ

哲学史とは、帝国や教会の大きな物語に晒されながら、個人がそれでも「自分で考える」を放棄しなかった歴史。 どこを取り出しても、今を生きる私たちの参考になる。 遠い昔からのエールが響いている。 「がんばれ、諦めるな」と。

行間からそんな言葉が伝わってきます。