まだ読んでいる途中ですけど、読中感想ということで。
アウトマトン
チラッとしか出てこないけど「アウトマトン」が気になってます。 アリストテレス由来の「自動機械」という概念だけど、それが17世紀以降の裏テーマに隠れていそう。 それぞれの哲学者はこれと闘ってるんじゃないかなあ。
自動で動く機械。 他でもない「科学」の根底に隠れている思想です。 ネジを巻けば設定されたとおりの動きを繰り返す。 あらゆる存在はそうした機械であり、仕組みを見つければ操作することもできる。 それ自体には何の意志もなければ目的もない。
たぶん産業革命前後で、急に生活に「機械」が入り込んできたのでしょう。 機関車が走り、時計が時刻を示す。 それは農作物とは異なるリズムを刻みます。 ボタンを押せばエレベーターが動き出す。 それまでの「道具」とは別次元の機械です。
そして「自然」もまた精密機械として暴かれていく。 実験によって自然現象のメカニズムが解明され、どんな病気も呪いや悪魔のせいではなくなった。 解剖学も発達し、生物はいろいろな器官が組み合わさった「機械」の姿を見せ始めます。
そういえばデカルトであったか。 亡くなった愛娘に似せた人形を作り、それをトランクに入れ持ち歩いていたそうな。 午後の紅茶の時間にはその人形を椅子に座らせ、デカルトは甲斐甲斐しく世話していた。 種村季弘みたいな世界を生きていました。
自由意志
哲学者はこの「アウトマトン」の何を恐れたか。 そこにあるのは「自分もただの機械ではないか」という不安でしょう。 「機械に過ぎない」としたら、この「私」はどうなるのか。 作られているとおりに動くだけだとしたら「意志」はないのだろうか。
デカルトの少女人形に歯車を仕込み、ネジを巻いて動くようにしても、それは「生きている」と言えない。 「機械」と「人間」との間には大きな溝がある。 人間には「私」があります。 「意志」がある。 この「意志」には何にも左右されない「自由」がある。
「自由」とは「自分の好きなことをすること」ではありません。 自分の欲求や感覚に囚われているなら、むしろそれは「隷属」です。 刺激に反応する「機械」と変わらない。
「自由」とは、どんな状況に置かれたとしても、その状況に縛られずに行動することです。 だから「主権」とも呼ばれる。 ホッブズがそうですね。 契約論はおまけに過ぎず「主権とは何か」に彼の関心があります。 その前提が崩れると、人が「機械」になってしまうからです。 「機械」がいくら集まっても「社会」にはなりません。
内なる神
ただ、どう議論しても「人間」から直接「自由」を引き出すことはできない。 人間は不完全で、やっぱり「機械的」な部分がある。 少なくとも身体はメカニズムである。 でも「理性」はどうなんだろう。 「理性」に「自由」が組み込まれているんじゃないか。
これは「そうであってほしい」という希望にすぎません。 自分はただの自動機械じゃないはずだ。 状況に縛られた「奴隷」ではないのだと、そう信じたい。
この時代の哲学者は誰もが「神」を持ち出します。 「神」は究極の「自由」です。 キリスト教的な人格神ではありません。 「自由」が投影されたシンボルであり、人間はその「自由」を分け与えられることで自由な存在となる。 そんな構造をしています。
西洋哲学に「神」がチラチラ見え隠れするのは仕方ないだろうなあ。 「人間は機械ではない」という譲れないラインがあり「機械」の反対語が「神」だからでしょう。 機械的な因果関係から抜け出すことができる。 それを「理性」に求めていて、その「理性」は「人の中にある神」を意味している。
神をイメージすることで「自由とは何か」を考えることができ、実践することができる。 この理屈からすると無神論者の人に「自由」はないかもしれません。 「自由」をイメージしようにも「好き勝手すること」の話になるし、そうした「好き勝手」は「欲求への隷属」でしかない。 そんな「受け身で機械的なあり方」に甘んじるわけにはいかない。
ソクラテスの「ダイモン」であり、攻殻機動隊の「ゴースト」に当たるもの。 たとえ社会を敵に回しても、その「自由」のためには命を賭けることも厭わない。 それが西洋哲学を貫く「神」なのだと思いました。
まとめ
とすると「哲学史入門3」は「神は死んだ」ですね。 「神」や「世界精神」を使わずに「自由」や「意志」を描くことはできるのか。 それとも「人間もまた機械である」の世界を受け入れながら、それでも「自由」を失わない道はあるのか。
そうした話になりそうです。