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素人哲学のススメ

あ、買ってしまいました。 「哲学史入門 Ⅱ」。 「Ⅰ」が面白かったから、これにも期待。 近代哲学のデカルトからヘーゲルまでが今回のメインです。

デカルトは「我思う、故に我あり」とは言ってない、とか、ヘーゲル弁証法は「正・反・合」ではない、とか、もう「へぇ〜」となるしかない驚きの連続です。

やっぱり最前線は面白い。

素人哲学とは

哲学史入門II: デカルトからカント、ヘーゲルまで (2) (NHK出版新書 719) 新書 – 2024/5/10

上野 修 (著), 戸田 剛文 (著), 御子柴 善之 (著), & 4 その他

まあ、感想はあとで書くとして、なんで哲学の本を読むのでしょう。 普通に会社勤めだし、定年退職してアルバイトの立場だし、哲学しても仕事の役に立たない。 専門家じゃないからまったくメリットがありません。

哲学の知識をためてどこかで披露したいのでしょうか。 いえいえ、そんな話をする機会はないし、多分聞いてくれる友だちもいません。 そもそも、ほかの人の意見を口にしたところで腹の足しにもなりません。 言うなら自分の意見を語りたい。

すると、自分の意見を補強するために哲学書を読むのでしょうか。 「誰それ先生もかくかく仰せられるように」と虎の威を借りるようなことがしたいのだろうか。

それまた自分の意見に自信がない表れですね。 補強するとしても、そうした援軍を呼ぶような使い方じゃなくて、むしろ敵を呼び込む使い方。 自分の考え方のどこに弱点があるかを教えてもらうために読む。 その方が取り組み甲斐があるというもの。

でも、どんなテーマだってすでに哲学者の誰かが考察している。 そちらの方がうまいし深い。 そこを敢えて自分がやる意味なんかあるんだろうか。 所詮素人の考察なんてしれてるんじゃないだろうか。 これは悩んじゃうなあ。

草野球でいいじゃん

じゃあ、これは趣味なのでしょうか。 そうかもしれません。 年取って時間が余って盆栽を始めるような。 自分がただ楽しいだけの、趣味。

そう開き直ってもいいかもしれない。 野球にプロ野球があるからといって、素人は黙って見てるだけなんてつまらない。 素人も野球していいじゃないですか。 サッカーしてもいいし、将棋を指してもいい。 専門家のいる分野だからといって、やってはいけない理由もありません。 そう、草野球のような哲学もあっていい。

まず自分でやってみないことにはその分野の凄さはわかりません。 自分で「自由とは何か」を考えないことには、プロの肺活量や跳躍力の凄みを感得できない。 まず、見よう見まねで哲学してみることです。

それに草野球でも野球は野球です。 ヒットを打てば嬉しいし、ゲッツーにされたら悔しい。 次はもっといい試合ができるようになろうと誓う。 哲学でも同じで、自分で考えてみるのも面白い。 考えたことは、もちろん発表する必要はない。 日記に書いておけばいいことです。 幸い、今の時代にはネットがあるんだからブログに書いてもいい。

それは草野球としての哲学です。 ぼてぼてのゴロでもトンネルします。 人さまにお見せできるようなものではない。 でも、やるからには全力でやりたい。

テーマを借りる

まあ、普段はぼーっと生きているので人生に「テーマ」があるわけではない。 そういうのも哲学書を読む理由ですね。 いろんなテーマが並んでいる。 その中でビビビと来たテーマがあれば儲けもの。 それを借りてきて、一から自分で考えてみる。

ビビビと来たということは、そのテーマは自分の何かに引っかかっています。 これまで生きてきて、どこか腑に落ちずにいたところ。 そこが刺激されている。 そのものズバリかもしれないし、ニアミスの何かかもしれない。 とりあえず借りてみましょう。

借りたテーマを自分で考えてみる。 頭だけで考えるとすぐ詰まるので、箇条書きで思いつくことを書く。 これでいい線まで行けます。 でも自分が思いつくことですから、意外なものが少ない。 何か枠の中に留まっているような感触がしてきます。

本当は話し相手がいるといいんでしょうね。 同じテーマに興味がある人がいて「哲学対話」になれば申し分ない。 でもそれは運に恵まれていることです。 日常的な場面でテーマを振ってみても「要するにどういうこと?」と聞かれて終わりです。 みんな忙しいから。 こっちも、時間取らせて悪かったなあ、と申し訳なく思います。

なのでじっくり話し相手になってくれるのは「本」なんですよね。 哲学書を通して「スピノザさん」とかを召還し、こちらの疑問をぶつけてみる。 「自由って何?」とか「私って誰?」とか。 それについて書いてありそうなところをつまみ食いする。 すると「こちらからはこう見えるけど?」と返事が書いてある。 「ああ、そうかあ。じゃあ、この考え方だと行き詰まりかぁ」 「そうでもないよ、前提条件が隠れてるんでしょ?」 「なに、前提条件って?」 「例えばさぁ・・・」と話が進むかもしれない。

形式の重要性

「本」を対話のように読む。 そういうのを考えているなあ、どうやら。 専門書は「周知のごとく」とされる前提を知らなかったりするから、書いてある文字が頭に入ってこないことがある。 飛ばしますけどね。 こっちの関心があるテーマのところを反復して読む。 対話として、こちらから疑問を投げ掛けないと、哲学書って返事しないんですよ。

「本と対話するコツ」が掴めると哲学書は楽しい。 「哲学史入門」のカントのところにありますが、カントは具体的な話を敢えて避けてるそうです。 形式だけを取り上げて話を進めている。 なぜそんなイケズをするのか。

もし具体例を書いて「こうしましょう」とするなら、それは哲学から遠いからです。 読者が考えることを放棄してしまう。 それをカントは恐れています。 カントだけじゃないですね。 デカルトホッブズヘーゲルマルクスも、恐れている。

哲学は「いっしょに考えましょう、人間とは何かを」です。 生きるとは何かを、幸せとは何かを。 だから「対話の装置」になる。 こちらがそこに参加しないと何も返ってこない世界なのです。 まず参加しようと覚悟すること。 それが必要です。

まとめ

もっと、知ろうと。