Jazzと読書の日々

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執筆プロセスを対象関係論に倣う

哲学史を読んだから次は精神分析史で。

生い立ちと業績から学ぶ精神分析入門

精神分析入門」となってますがフロイトは出てきません。 アドラーラカンも出てこない。 哲学が考える「精神分析」と心理学の「精神分析」は別物です。 中心になるのはイギリスの対象関係論。 今の日本で重視されるのが「ここあたり」なのでしょう。

対象関係論とは「子供のための精神分析」です。 戦後、子供の神経症を治療するために開発されました。 戦時中、親を亡くして孤児となった子どもたちは多い。 そうした時代背景があります。 フロイトは父親の役割を重視しましたが、それはウイーンの裕福な大人の話です。 子供に関わる対象関係論では母子関係を重視します。

赤ん坊ははじめ「言葉以前の世界」に住んでいます。 そして周囲との関わりの中で「言葉のある世界」に移行していく。 その成長が、何か事情があって阻害されることがあります。 生得的な要因かもしれないし、環境的な要因かもしれない。 その阻害の影響が「神経症」という形で表れます。

精神分析は成長が再開するように働きかけます。 「言葉以前の世界」から「言葉のある世界」へ。 これを象徴形成と呼びます。 子供と遊びながら、その遊びが表す心情を分析家が「言葉」で表現する。 そうした解釈が中心になっています。

カオスな世界を分節化する。 それを子供が取り込むことで、それまで行動や身体症状で表現していた不安を言葉で扱えるようになる。 不安は不安でも「言葉にできる不安」に変わる。 「言葉」で表現できれば身体で表さなくて済む。 それが対象関係論です。

対象関係論の歴史

対象関係論は「子供の精神分析」で始まりましたが、「言葉にならない不安を扱う」が発展し、大人の精神病にも応用されるようになります。 「病気を治す」というより「精神病に巻き込まれた本人の気持ちを理解する」というニュアンスですね。 患者さんも苦しんでいるんだから。 その「内界」を推し量る理論が展開します。 さらに近年では発達障害にも応用され、当事者の「内界」を言葉にする作業に変わってきました。

日本で対象関係論が重視されるのは、医療より教育で使われるからでしょう。 「子供の心を理解する」というスタンスで、昨今は発達障害がトピックになっている。 感受性が強く、フラッシュバックしやすい。 「言葉以前の世界」が心に大きく占めている。 子供の心は、「言葉」を前提とした大人の理解では届きません。 その心情を理解せずに関わろうとしてもバリアを張られてしまいます。 一緒に「言葉以前」に染み込んでいき、徐々に「言葉」をツールとして与える。 そうした関わりが必要になります。

レーニングとしては「乳幼児観察」を行います。 赤ん坊が生まれたばかりの家庭にお邪魔し、定期的に母子関係を観察します。 発達心理学に似てますが、ちょっと違いますね。 子供の発達を見るのではありません。 母親も「母親」として発達します。 子供を産んだことで「母親」となった。 それ以前から「母親」だったわけではありません。

その子供と母親、二人のあいだに起こる相互作用を観察します。 これが治療関係の基本モデルになるからです。 「言葉以前」から「言葉のある世界」に移行するとはどういうことか。 それが普通の家庭で展開します。 それを教えてもらう。

もう一つは自分が分析家となったとき、治療関係を捉える練習にもなっています。 その場にいながら、その場の相互作用を第三者視点で見る。 フィールドワークの「関与しながらの観察」。 それが臨床家として求められるスキルだからです。

執筆プロセス

執筆プロセスに引き付けると、この対象関係論はどう活かせるでしょうか。 対象関係論を「書くこと」に見立ててみる。 そっか、これもアレゴリーの応用ですね。

「言葉以前」にどう「言葉」を与えるか。 「言葉以前」は子供モードで、「言葉のある世界」は大人モードです。 まさに「書くこと」はその二つのモードでできています。

子供モードで使われるのは「投影同一視」。 たとえば無力感を抱えている上司が、その無力感を部下に投影し、口汚く罵るパワハラのような事態。 自分の中にネガティブなものを抱えておけない。 本当は自分に腹を立てているのに、それを受け止めることができない。 部下との関係で「行動」として表れてしまう。 それが投影同一視。

とはいえ、この投影同一視は「共感」の基盤でもあります。 自分と他人が入り交じりやすい。 境界が薄くて区別が付けにくい。 悲しんでいる人を見かけたら、自分も同じように悲しくなって貰い泣きしてしまう。 このモードも人として大切です。

大人モードは「抑圧」です。 投影していた葛藤を回収し自分の腹に収める。 「抑うつポジション」とも呼ばれていて「自分が悪かったなあ」と落ち込みます。 ストレス発散とは反対方向なので、気が晴れることは無い。 鬱々します。

そうした意味では「内省」でもある。 深く沈み込むことで新しい発想が生まれたりするので「創造的抑うつ」とも呼ばれます。 創造性には「抑うつ段階」が必要で、長いトンネルの先に展開がやってくる。 それを肯定的に捉える視点です。

この子供モードと大人モードは、どちらかに固まると息苦しくなります。 子供モードだけだと精神病的で、大人モードだと神経症的です。 精神分析に「正常」はありません。 だから「治療」にはなりません。 そんなところは目指していない。

この二つのモードを柔軟に行き来することはできます。 時には子供モードになり、リアルな体験に心を震わせ、時には大人モードになり、何も起こらない時間をゆったり過ごす。 ハイになったり、ローになったり。 この緩急の中で暮らしを経営していく。

そうしたバランスを「good enough」と呼んでいます。 「程よい」のニュアンス。

悪口メモ

これを「書くこと」に応用する。 おやおや、どうするんだ? まず子供モードで「人の悪口」を書いてみることでしょうか。 実際に言っちゃわないためですよ。 相手に言ってはダメです。 隠れて紙に書く。 書いて忘れる。 このメモを貯めていきます。

それから落ち着いたときに大人モードでメモを見返す。 寝る前の落ち着いた時間に、一人っきりになって振り返る。 それは「他人の話」だけど「自分のこと」でもないのか。 自分の不安を投影しただけじゃないかと思いながら読み直してみる。

なんか落ち込みそうだな。 対象関係論的には落ち込むのはいい兆候だから、まあ、よく落ち込むことか。 「自分の話」と思えたらその葛藤を抱える。 「自分じゃないな」と思っても「相手の立場」になって考えてみる。 そうすれば状況の理解が深まる。 内省になったり共感になったりするわけで、この大人モードで思いつくことも追記しておく。

これが対象関係論の応用になるんじゃないだろうか。 いま思いついたけど。

まとめ

「他人の話」から「自分の話」へと展開する。 この癖をつけることか。

ここから「相互作用の話」や「欲望の話」に進めるにはどうするといいのかな。