Jazzと読書の日々

iPadを筆記具として使う方法を模索します

ノートシステムの変遷

「スマートな悪」は面白い本でした。 いろいろ刺激を受けた。 最適化すればするほど息苦しくなる「社会」について考えさせられました。 最適化自体は悪くないのに、なぜこうした事態に陥るのか。 その事態を回避する方法はあるのか。

これはまた難しそうなので、まず別のことから考えてみます。

ノートシステム

ということで「ノートシステム」です。 それもデジタル・ノート限定で「最適化」を考えてみます。 すると「常に最適化は進んできた」という事実に思い当たりました。 だから「反最適化を目指せば大丈夫」という話では無さそうです。

肝心なのは「最適化」の内容ですね。 2つの「最適化」があり、それが混同しているのかもしれません。 その違いを考慮すると「スマート」を躱せるのではないだろうか。

一つは「パターンの最適化」で、もう一つが「オープンへの最適化」です。

パターン化は「アプリ」に重点が置かれます。 ファイルのフォーマットはそのアプリに特化され、他のアプリで開くことはできません。 ワープロソフトはそうした囲い込みをすることで機能を充実させ、安全を確保しています。 典型とすると「Word」。

それに対し、オープン化は「データ」を重視します。 データ形式を規格化することで、それに対応するアプリであればどれでも開くことができる。 古くはプレーンテキストがそれを担ってきたし、今だとMarkdownが採用されることが多い。 そうした形の「最適化」もあります。 Obsidianのように、データの使い回しに力点が置かれている。

ただWordへの対抗策としてObsidianが出てきたのではありません。 そこには回り道があったと思います。 インターネットを通じてデバイス間の共有を考えたEvernoteの存在が大きい。 デバイスに対してオープン化している。 どこからでも同じノートシステムにアクセスできる。 データが「パソコン」という箱に縛られなくなった。

ただEvernoteのノートはEvernoteでないと開けません。 アプリ自体はクローズド。 どのアプリでもファイルを開ける世界は、Dropboxなどのクラウド・ストレージが出てきてからでしょう。 Dropbox自体というより「Dropboxを保存先にするエディタ」が一時期竹の子のように生えました。 データが「アプリ」という箱にも縛られなくなった。

バイスにもアプリにも拘束されない。 そこで初めて「データ」と向き合う基礎固めができました。

ネットワーキング

DOSの頃から「データ志向」はあるんですけどね。 grepawkで複数のファイルを対象にテキストを加工できた。 アプリではなくデータを中心に環境を組み立てていました。

Obsidianは、そうしたDOSの頃のテキスト加工への先祖返りです。 ただし、コマンドラインを使わない。 プラグインを利用してのインタフェースが用意されています。 検索も置換もアプリとして行うことができる。

もう一つは、クラウドを通ったことで「データ間のネットワーク」が意識されたことです。 昔のエディタやワープロで、データはデータとして完結していた。 そこを、Webブラウザをメタファーにして「リンク」が導入されます。 ファイル間のリンクという発想は、インターネットをローカルに持ち込むことで起きた「新しい切り口」。 それが何を引き起こすかはまだ未知数に感じます。 ただ「Wikiが作れる」といった話ではない。

クラウドを経由したことで「アプリ」という枠も壊れました。 ObsidianはアウトライナーやTodoアプリの機能も引き継いでいます。 「ワープロ」だけじゃないです。 Webアプリにあった「アプリ」なら何でも再現できる。 「共通フォーマットにMarkdownを使おう」という提案になっています。 Markdownでタスク管理ができたりする。

Obsidian自体は使いにくくて構いません。 そのファイルを、たとえばTodoアプリで開くことができる。 そうなったとき「ローカルにMarkdownファイルで保存する」の意味が変容します。 そのTodoアプリのデザインが優れていればいい。 なおかつObsidianでも二次利用できる。 そうなると「オープンへの最適化」が功を奏するわけです。

社会というシステム

で、これを「社会のこと」にパラフレーズするとどうなるか。 うーん、どうなるんでしょう? 考えてなかったなあ。

オープン化は「他の人にも開かれている」ですね。 他者と対話することを前提にしているし、その他者は多様性を想定している。 その対話を可能にするプロトコルを最適化するイメージ。 いろんな人に「来てくださいね」と声をかける。 そのための最低限なマナーは何か、ってことでしょうか。 エチケットとしての倫理。

パターン化は囲碁の「定石」を考えています。 ある程度「型」があって、それに沿って進める方が効率がいい。 パターン化は悪いことじゃありません。 建築学のパターン・ランゲージのように「型」には先人の知恵が詰まっています。 何かを学ぶとすれば「型」から入り、知らず知らずに身につけていた、それまでの「常識」を脱学習する。 それが「型」の効能。 「型」を通して先人の身体性を追体験するのが鍵です。

でもパターン化は「一般的には」に過ぎず、個別のケースにぴったり来るわけではありません。 弟子の身体は師匠とは異なる。 脱学習の「型」が次の「常識」になっては元も子もない。 パターンをパターンとして活かしながら、個別にはブリコラージュで対応していく。 カスタマイズとかガジェットとかはその個別性ですね。 手持ちのモノを動員し、本来の使い方には囚われない。 そうした柔軟性が必要になります。

すると「パターン化」と「オープン化」の間を揺れ動く感じかもしれません。 閉じすぎず、開きすぎず。 バランスを取りながら自転車を漕ぐ身体感覚。 傾いたと思ったらパターンに戻ったり、ここが勝負どころと思ったらあえて「型」から離れたり。

こう考えてみると、矛盾する2つの原理を持つことだろうか。

いつも矛盾する必要はないけど、時には迷うこともできる。 「スマート」が「悪」になるのは原理が一つしかないときでしょう。 迷いがない。 その状態はただ「原理にとっての最適化」でしかなく「状況への最適化」ではない。 状況には矛盾が含まれるものだから、それを受け止める器も「矛盾込み」にしておくのが最適化です。

矛盾ある最適化。 スピノザの「コナトゥスとリビドー」かな。

まとめ

普段使いのエディタも2つあるといいかも。 一つで済ませようとすると、エディタに使われている状態になります。 エディタを使うには「エディタを考える余白」を残すこと。