Jazzと読書の日々

iPadを筆記具として使う方法を模索します

もしも近未来において

Volunteer pansies growing in a driveway.|600 Backlink | Photo by Bill McBee on Unsplash

もしも近未来において、図書館の書籍をデジタル化して脳に流し込むことができたら、その人は「なんでも知っている」になるのだろうか。

デジタル化

国立図書館のデジタル化が進んでいます。 「ログイン無しで閲覧可能」な書籍も増えてきました。 これを資料として使える若い人たちが羨ましい。 宝の山ですよね。 ここにAIを組み合わせれば、どんなテーマでも切り取ることができそうです。

それで「もしもこのデータを脳に転送することができたら」と考えてみました。 おやおや、不思議な結論が出たぞ。 実は何も変わらない。 データがオンラインかオフラインかだけじゃないですか。 それを読むのでなければ現状は変化しません。 とすると「読む」という行為はデータを蓄積するだけではないようです。

ここは思案のしどころ。 「読む」とは「記憶」ではない。 脳の中にデータを流し込むことではありません。 何かをしている。 その何かをつかむと「読む」をブラッシュアップできそうな気がします。 さてさて、いったい何をしているのか。

読む

「読む」が蓄積でないとすれば、データの加工でしょうか。 たとえば本を読みながら、その内容を要約したり咀嚼したりしている。 その著書を著者の変遷に位置づけたり、当時の思想的な潮流に関連付けたりする。 読みながら、そうしたデータの加工を行っています。 図に落としたりする。 とすると、これが「読む」でしょうか。

でもその考えはすぐに否定されそう。 というのも「要約や関連リンクもデータとして流し込めばいいのか」という問題が浮上してくるからです。 AIの得意分野ですね。 でもそれはデータが少しばかり増えるだけで、何も「読む」の本質に関わっていない。 それだけでは「読んだ」とは言えない事象です。

するとデータの増加ではない。 その書籍に触れることで何かが変化する。 そうしたことが起こらないと「読む」とは言えない。 何かが伝わり、触媒として作用する。 何が変化すると「読んだ」の感触が生まれるのでしょうか。

たぶんそれは「自分が変わった」かもしれません。 「目から鱗が落ちた」や「五臓六腑に沁みた」という感触です。 「自己」が変容する。 物の見方が変わったり、その後の行動に変化が現れたりする。 それをもって「本を読んだ」と言えそうです。

ウロコ中枢

ではもし「自己の変容も込みで脳を変化させる」であれば「読んだこと」になるのでしょうか。 データを転送するとき「目から鱗が落ちた中枢」も刺激して感動を与える。 今でもできそうなテクノロジーですね。 脳内ホルモンの分泌を増やし、意味もなく「すごいすごい」と興奮するように仕向ければ、これは「読んだこと」になるのだろうか。

とても気持ち悪い状況です。 もしそれで「物の見方」が変わり「その後の行動」が変化したとすれば、それはただの「洗脳」でしょう。 時の為政者が自分の思惑の沿った「感動」を配信すれば、簡単に独裁国家を作れます。 これは用心用心。

変な洗脳に晒されないように、個人で「感動の設定」ができるとしましょう。 「セーフサーチ」をONにして、自分の思想信条に影響しそうなコンテンツはヒットしないようにする。 もしそのような状況になれば、とりあえず洗脳のリスクは減ります。

安心安全というやつです。 公序良俗に反する悪書に「良い子のみんな」はアクセスできない。 なんだ、今の状況と変わらないじゃないですか。

これは「読む」と言えるだろうか。 いくら書籍を漁っても、自分の想定内の変化しか起こらない。 「子ども」が設定したセーフサーチは「子どもの思いつきそうなこと」を越えることはありません。 「友情努力勝利」にちょっと「エッチなこと」が入るくらい。 子どものまま、ただの「セクハラ親父」になるだけです。 おお、気持ち悪い。

まとめ

街場の成熟論 (文春e-book)

内田 樹 (著) 形式: Kindle

『街場の成熟論』を読んで連想しました。 図書館で本の数に圧倒されるエピソードは好きだなあ。 震える。 「生きている間にこれだけの本を読むことはできない」という事実がヒトを「人間」にする。 いつもの内田節だけど、まったくです。

それと「読む」が「月読」からの連想で「夜見」や「闇」さらには「黄泉」と同根じゃないかと思いました。 明るいところで見えるものはこの世の表面に過ぎない。 古代の人はそれを「読む」とは呼ばなかった。 暗いところにじっと目を凝らしてみる。

でないと「読んだこと」にならないんじゃないか。