Jazzと読書の日々

iPadを筆記具として使う方法を模索します

書くことの循環分析について

「着想」のところは「意志/欲望」ではないかと指摘されて、ちょっと考えてみました。 そう、これは「欲望」に関わることのようです。

ブログ分析

以前、ブログがどう書かれるかについて考えました。 「ブログ」を広い概念としてローカルにも適用する。 単にネット上のものだけに限らないことで、言葉がどう生まれてくるか。 それを考察する土台を用意するものです。

これのおかげで「第二の脳」を自分なりに捉え直せたと思います。 「脳」を頭蓋骨の内部に閉じ込めるのでなく、内なるものと外なるものの出会いの場として定義する。 メルロ=ポンティが「襞」のメタファーで語っていたなあ、と。

書くこと分析

で、「着想」を「欲望」に置き換えると下図が見えてきました。

What, Why, How は前から書いているところですが、Whom も取り込んだ図を考えてみました。 「誰に」ですね。 「読者目線」と呼んできたところを位置づけてみる。

すると「この通りだな」と共鳴が起こりました。 ブログには「誰かに何かを伝えたい」という動機があります。 それが「第一の欲望」。 What の「テーマ」だけでなく、Whom の「宛名」も持っている。 書くことには「手紙」の側面があるのだから当然です。

他の人のブログを見たり誰かの著書を読んだりしたとき「何かを書きたい」という思いが浮かんでくる。 これを「着想」と名付けたわけですが、先行して「この人に」という宛名がすでに存在している。 もちろんローカルのテキストを見てなら「過去の自分に」という宛名です。 この宛名が、続く文章を規定している。

(もしかしたら Whom に重点を置くのが精神分析で、What に焦点を当てるのがフォーカシングなのかな。 似てるようで全然違う。 わからんけど。)

作品と誤配

ただ、この宛名は Why に入ったときに一度消えます。 「なぜ書くのか」の理由付けの段階で、想定する読者は「不特定多数」になる。 つまり「誰が読んでも」に代わる。 誰が読んでも意味の取れるものでないと、ブログとして公開しても「意味不明」になってしまいます。 最初の「宛名」は表から消え、別の「一般他者」が書き込まれる。 Why のところが「第二の欲望」になります。 「手紙」が「作品」に変わる。

公開に値するモノに仕上げるのが How 、つまり方法論です。 いわゆる「ノウハウ」のところ。 「どう書くか」の表現が問われる。 ここにも「読者目線」が入ってきますが、もはや「宛名」ではありません。 「読みやすさ」や、意図的な「読みづらさ」を調合する料理としての仕上げです。 誰に届くかわからないモノとしての「作品」。 間違いなく誤配され、誤読されることで次の Whom を引き起こします。 パラロジカルな領域。

書くことにはこの四段階があり、前の段階を超克している。 これが「推敲」ですね。 一周とは限らない。 書き上げたものを自分で読み直すことで二周めに入る。 人に読んでもらうことでさらにもう一周する。 何度も循環することで、いろいろな他者が入り込んでくる。 レイヤーを重ねていきます。 それが公開されたり、されなかったりする。

まとめ

書き手が何度も読み返して生まれてくる文章なのに、読み手は一回しか読まない。 その不均衡は不思議なところです。 「一周めの私」「二周めの私」「三周めの私」…と折り重なっているのに、読み手はどの「私」を読み取っているのだろう。

それが「語り」とは異なるところ。