Jazzと読書の日々

iPadを筆記具として使う方法を模索します

あなたのことをもっと知りたい

「体感」と「他者」の交点が「欲望」である。 そんなふうに書いたけど、それって訳わからんじゃないですか。

愛知者

要するに「それってどういうこと?」と尋ねてくる読者目線です。

自分で書いたことを読み直して「どういうこと?」と思う。 ダメ出ししてくる読者目線じゃ、ほら、ダメなんですよ。 書いた文章を消したくなって、先に進めない。 それだと「欲望」もなにもないわけです。

「それってどういうこと?」と尋ねる「他者」を自分の中に育てる。 それで初めて「書く」ができます。 早わかりするんじゃなくて「わからない。わからないから教えて」と問いかける読者。 それを内在化する。 それが「次のテキスト」を生み出す。

そのためには日頃から本を読むとき、どういう読者になっているかですね。 「わからないから教えて」という気持ちで読んでいるか。 「あなたのことが知りたい」という気持ちが湧いているか。 読書が「読者目線」を育てます。

哲学が「フィロソフィー」を名乗るのも、「知者」や「目覚めた者」ではないからでしょう。 自分は「あなた」を知らない。 「フィロ」は「愛」、ペドフィリアの「フィリア」と同じ偏執者です。 その愛が「知」に向かっている。 「知りたい」という気持ちでいっぱいになっている。 それが「フィロソフィー」ということ。

この愛知者の態度。 それが「読者」に要請されることです。 日頃から「もっと知りたい」と思えるテキストと出会うこと。 「あなた」のセクシャルさに魅了されること。 ワクワクして時間を忘れる体験を積み重ね、自分の中に「他者」を育てる。

そうした読み方ができると、書く文章にも「欲望」が立ち現れるんだろうなあ。 読者といっしょに「こうなるといいよね」と頷きあえる欲望が。

ダンダダン

ということで今期は「ダンダダン」。 これは面白い。 久しぶりにリピート視聴してるアニメです。 スタジオSARUで安心できる。

バディものの真骨頂じゃないかな。 主人公が二人いて、どちらかだけでは問題が解決できない。 互いが信用し合い背中を預けたとき、状況を打破する扉が開く。

まさにバロム・ワン、二人で一つ、バロロォームゥ〜。 ホームズとワトソン、ポワロにヘイスティングス、ルパンと次元。 バディものはこうじゃなきゃいけません。

いい作品を見ると、思うことは一つです。 「あなたたちのことをもっと知りたい」。 それが欲望になる。 欲望に終着点はありません。 それが欲求と異なるところ。 ずっと見ることができる。 繰り返しても飽きることがない。

いやあ、ほんと。 時速100kmのターボババアと駆けっこしてどう勝つんだよ?と思いますやん。 「10分後に追いかけてこい」と言っても、相手は「1、2、10分」と無茶苦茶なこと言って、すぐ追いかけてきますやん。

幽霊(いや、妖怪じゃないのか?)に人間の理屈は通りません。 そこをモモとオカルンの二人が知恵を絞って乗り越えていく。 絶体絶命を突破する。

JOJO風味だけど、いい感じなのは、戦いの最中、お互いが相手のことを思いやり、よりもっと知ろうとしているところですね。 見てる方も同じで「こいつら、かわいい。もっと知りたい」と思える。 うまいストーリー作りをしています。

こういうのだよなあ。 ここに「フィロソフィー」がある。

まとめ

翻って、自分はどうしてこういうストーリーが描けないのだろう。 ああ、鬱だ。