Jazzと読書の日々

iPadを筆記具として使う方法を模索します

「書く」って、どんなこと?

そうそう、これが私の欲望、ライフワーク。

「書く」って、どんなこと?

このシリーズ、好きだなあ。 NHKの「学びのきほん」。 薄いテキストだけど要点を押さえています。 しかも、高橋源一郎だから歪みがない。

今回のテーマは「書くこと」。

正面から「そもそも<書く>とは何か」を問いかけている。 「そもそも論」の基体を問う哲学。 これはテキスト学の教科書に使えるんじゃないかと思いますね。

そして、答えは失敗しています。 というか、失敗を運命づけられている。 「そもそも」と言いながら、書いてあるのは「誰が書くのか」「どう書くのか」「何を書くのか」の周辺事情です。 Who、How、Whatが並んで「書く」に辿りつかない。

これは仕方ないんです。 「そもそも論」はゲシュタルトの「地」を問う課題です。 言葉で「地」は描けません。 「地」を記述するには、そこに並ぶ「図」をまず描写し、その否定として「地」を捉えるしかありません。

サブジェクト(地)はオブジェクト(図)の否定神学になる。 あらゆる存在の基盤となる「神」を肯定文で表現することはできません。 否定を使わないと表現できない。

誰が書くのか

書くには書き手がいます。 作家がいる。 「わたし」と名乗る誰かが存在します。

「書くこと」は個人主義なのです。 会社が書いたり、国家が書いたりはできない。 「わたし」という個人がいて、その個人の諸々が言葉の中に現れます。 文章があるだけでなく、その「わたし」の生き様や感情も「書くこと」に吹き込まれている。

だから、読む側からすると気持ちを揺さぶられます。 言ってみれば、その人の「からだ」がそのまま提示され、それがこちらの「からだ」と共振れを引き起こす。 そうした振動に巻き込まれるからです。

なぜそのようなことが起こるかと言うと「わたしが書いているから」じゃないと思うんですよね。 高橋先生とちょっと意見が異なるけど。 「わたし」が先にあって、それが言葉に込められるのではなく、言葉として書く行為の中で「わたし」が立ち上がってくる。 そうした機序がある。

表現行動によって生成するのが「わたし」。 だから、読むほうも、同じ時間を共有して「わたし」の身体を生きてしまう。 共感とはそうしたことでしょう。 その場に生まれているのが「わたし」で、それはテキストを読むたびに何度も生成し直す。

強い想いの文章を読むと、同じように涙が流れる。 まるで「わたし」のことのように。

どう書くのか

「考えずに書く」なんですけどね。 これはここでも書いてきたことで、テキストを書くのは「わたし」ではない。 キーボードが書いているのです。 そしてディスプレイに出てきた文章を見ながら「わたし」は「へぇ」とか「ほぉ」とかボケたことを呟いている。 それが「書くとき」に起こっていることです。

高橋先生の言われるように、これはワープロを使うようになってから強いかな。 紙に原稿を書いていた頃はあまり感じなかったと思う。 辞書で漢字を調べたりするので主体感があり、あまり中動態的でなかったのかもしれない。

高橋先生はそれを「昼の意識」と「夜の意識」に分けたりしてますが、昼間であっても「夜の意識」も活動しているとも指摘しています。 そりゃあ、そうです。 昼でも文章は書けるのだから。

でも、昼の問題点は「外界が忙しい」ですね。 「昼の意識」は外の生活に気がとられるから「トイレットペーパーが無くなった」とか「明日の歯医者はどうしよう?」とかバタバタしている。 そうでないと生活に支障が出るのだから仕方ありません。

でも、ちょっと「引きこもり」をすると思うんです。 人と会うことを最小限にすると、この忙しさはだいぶ減ります。 欲望が消えていく。 食べるのも面倒になるし、寝つきも悪くなる。 食欲や睡眠欲が減っていくわけです。 人と会わないと、服装もいい加減になるし、霞を食べて生きていけたらなあと夢想し始める。

これを「鬱」と呼ぶのはもったいないですね。 むしろ人としてデフォルトじゃないだろうか。 欲望が消失した「ゼロ地点」に向かっているように感じます。

ただ「何かを書きたい」は減らない。 面白いことに文章は自分の中から湧いてきます。 半分「夢」みたいなものですけど。 取り止めなく白昼夢が湧いてくる。 昔山に住んだ仙人たちも結局漢詩を詠んでしまう。 誰に聞かせるでもないのに。

たぶん、この表現欲求も消えるとニルヴァーナかな。 お釈迦さまが出世間を説いたのも、欲望が他者との関係で生まれてくるからですね。 引きこもりに効能あり。 欲望が消えるとストレスも消える。 他者を封じると「何か書きたい」だけが残ります。

それで昔の小説家は温泉宿にカンヅメにされたわけか。

何を書くか

最後のテーマは「書く対象」です。 これを「言葉にならないことを書く」としているのも慧眼だと思いました。 「言葉にならないこと」とは「そもそも論」だからです。

ハイデルベルグ不確定性原理とか出てきてますが、余計混乱しますね。 でも、わかります。 身体感覚と関連あるなら、そこをメタファーに接点が作れる。 でも、そうした接点を作れないことを書くにはどうすればいいか。 そこに言葉の限界があるからです。

それは「ここまで出てきてるのに」と喉元を指すような事態。 もしそれが生のまま出てきたらゲロになります。 嘔吐になる。 サルトルの言う通り、それは吐き気なのです。

身体としては身体症状として表現するしかない。 下痢になる人もいるだろうし、過呼吸になる人もいるだろう。 そうした「言葉にならないこと」を形にしていく。 「言葉にする」はそうした矛盾含みの行為です。

今の流れで言うと「書くこととは何か」がこの「言葉にならないこと」に当たります。 この本自体がそれと格闘している。

これは海を描こうとするようなものです。 浜辺に座り、海をキャンバスに表現しようとする。 でも人間の目に見えるのは波です。 岩です。 空を飛ぶカモメです。 海そのものはキャンバスに再現することができません。

「地」そのものは描けない。 ただ、それについて語り続けることで「輪郭」を示すことはできる。 そして書き続ける間は、とりあえず吐き気は止まるのだろうと思います。

「書くこと」が代理症状になってくれる。

まとめ

あと4日目の講義として「誰が読むのか」とかがテーマだけ上がっているのも良いですね。 読者に宿題を残している。 だって「書くこと」の輪郭をたどるには、読者自身も実践しないと伝わらないからです。

すると読者は感想文を書くことになります。 ああ、罠にハマった。