Jazzと読書の日々

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マークダウンは発想法である

Tropical beach in St. Maarten Photo by Janne Simoes on Unsplash

文章を書くとき手順があります。 たぶん三段階あると思う。

直観と了解

最初にテーマが現れる。 ふと思いつくわけですね。 それを書き留める。

いま湧いてきたテーマは「マークダウンは発想法である」というフレーズです。 なんか説得力があります。 でもこれだけ書いても記事にはなりません。 なぜそう言えるかを説得しないといけない。

誰に? 自分自身にですね。 「マークダウンは発想法である」と言えるためには何を書けばいいか。 そもそも発想法とは何か、とか、それとマークダウンの何が関連するのか、とか。 そうした説明を自分に行うことになる。

こう考えると、ここまでに二つの段階があります。 テーマが出てくる直観の段階と、そのテーマを解説する了解の段階。 直観と了解。 解説するうちに新しい直観が出てくることもある。 この二つのフェーズが交互にダンスするように入れ替わります。

直観は身体に内蔵する知恵です。 ツァラトゥストラに「身体は大いなる理性」と出てきますが、この感じを指していると思われる。 身体には、生命誕生以来の知性が宿っています。 地上に有機体が発生してから培ってきた歴史を背負っている。

了解は意識的に考える作業です。 意識は言葉とイメージを使い、身体からのメッセージを読み取ろうとします。 個人の努力の歴史です。 身体と意識が出会うところに「直観」が生まれる。 意識にとって直観は謎であり、解読する必要があります。

意識は他者をモデルにしています。 赤ん坊の頃、自分の身体からの欲求を、周囲の大人に読み取ってもらった体験が基礎にあるのでしょう。 「お腹が空いたのね」と語りかけられる。 その他者が内在し、自分で「お腹が空いた」と意識するようになる。 言葉が介在するし、何より「読解」という側面があります。 自分を自分で読み取っている。

何かを発想することは、この身体と意識の対話です。 直観と了解がある。 身体が投げかけてきた「テーマ」という謎を、意識がテキストの形で解き明かす。 そうしたプロセスを経ている。

数学の証明問題みたいですね。

マークダウン

マークダウンはこの直観と了解を取り扱います。 何かといえば箇条書きのことです。 マークダウンは文章を箇条書きで表現する。

まず直観した「テーマ」を書きます。 そしてそのテーマを読み解く解説を書く。 一行では済まないから何行も書く。 それを繰り返すことが箇条書きになります。

マークダウンの特徴は「空行」にあります。 記法ではありません。 見出しにしたりリストにしたりするのは瑣末なことです。 それより、箇条書きで書いた文章がプレビューだと連結するのが不思議じゃないですか。 テキストが一塊になる。 それを分割するために「空行」を挟み「段落」を構成します。

これは紙では思いも及ばない仕様です。 紙の場合は箇条書きの見た目は箇条書きのままです。 文章を書くとすれば、センテンスを続けて書くことで「段落」を構成します。 どこまでが一塊なのかを意識しながら書くことになる。

でも、書いているときに「どこまでが一塊か」を意識することはできません。 全体を書き終わってからでないと「段落」を見つけることはできない。 なので、紙に書いていた頃は、書いた文章に赤ペンを入れ、何度も書き直しながら文章の構成を考えました。

マークダウンはその身体作法を変えてしまった。 まず先に箇条書きを書けばいいことになった。 それから行を入れ替え、補足を書き足し、塊が見えてきたら空行を入れ「段落」とする。 アウトライナーで行っていたことが、平文のまま行えます。

章立て

段落が見えてくると、段落の集まりの「章立て」も見えてきます。 途中でメロディラインが変わっている。 連想に切れ目のあるところ。 無理に繋げる必要はなく「章」が変わったところです。 そこにマークダウンで「見出し」をつけます。 「ここからメロディが変わります」の目印です。

見出しの利点は「フォールド」と「ズーム」が使えることです。 Obsidianがマークダウン向きなのはこの二点があるからですね。 平文のままアウトライナーの作法が使える。 フォールドすると見出しだけになるので、全体の展開を把握しやすい。 これも一つのマッピングです。 いま書いている現在地が「どこ」なのかを見て取れる。

もう一つは見出し自体が「直観」となるからです。 いい見出しは謎となり、意識はそれを了解するために連想を深めていく。 いまだと「章立てとは何か」が謎です。 紙で書くときにも「章立て」はありましたが、それとデジタルではどう変わってきているか。 そこに疑問点がある。

疑問を解くには、まず反対を考えてみることです。 「そもそも章立ては無くていいんじゃないか」とか。 章立てについて「常識」とされていることを疑ってみる。

疑った末に「やっぱり要るよなあ」となればそれはそれでいい。 でも、疑っている最中に「章立て」の新しい側面を発見する可能性もあります。 それもそれで面白い。

見出しは、推理小説で言えば「犯人はヤス」と最初に書くようなものです。 これから書くことをネタバレしている。 ものによっては結論を先に明かすと「読みやすい」でしょうが、個人的には面白くない。 そこが「章立て」のもつ欠点かもしれません。

犯人はヤス?」くらいにしておきたい。

マークダウンで書いていくと、この「箇条書き→段落→章立て」の積み上げが自然とできるようになります。 これが今度は「記事」という単位になる。 大リーグボール養成ギプスのように、普段の文章書きがそのままライティングの地力を培ってくれます。

まとめ

あらあら、「たぶん三段階あると思う」という直観の謎解きになってませんでした。

ラカンの論理的時間が元ネタなので「決断」もあるはずだけど、決断って「もうこれでいいや」と投稿しちゃう段階なのでマークダウンで表せるものではないし。 そこはツールでは語れない。 覚悟はいいか、俺はできている、みたいな。

要するに自分の中の「読者」、「これでええんか」という自己批判との闘いがあるんですよ。 それはそれでしんどい。