Jazzと読書の日々

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なぜ大の里は大谷翔平なのか

というか、変な天才たちがあちこちの分野で頭角を表してます。 あれはなんなのでしょう?

秋場所

大谷翔平の大リーグでの活躍も変なのですが、将棋の藤井聡太の八冠達成も変な現象でした。 大相撲も大の里が変なのです。 去年大相撲に入ったばかりなのに、もう幕内で2回優勝し、次の場所には大関に昇進しそうです。

こうねえ、屈折がない。 陰で努力はしているのだろうけど、それは他の力士たちもそう。 長年の下積みがあって技が磨かれていくものだろう。 こんな、とんとん拍子で白星を上げていける世界ではない。

野球だってそうじゃないですか。 ホームランって簡単に打てないからホームランなのです。 それを投手をしながらホームラン打ったり、今年は打者に専念はしていたけど盗塁も50を超えてきたり。 「なんなんだ?」と思うレベルの活躍をしています。

彼らに何か共通点はあるのかなあ。 世代的なものじゃないですよ。 だって、同世代の力士でも上に上がりかねているのだから。 大の里と同じ高校で大学だった高橋(白熊って四股名になってますけど)は頑張ったけれど、また十両に戻ることになった。 とてもキレイな相撲をとるけれど、まだまだ経験不足です。 というか、それが普通です。

たぶん、昭和と違って、どの分野もデータの蓄積があり、科学的なトレーニング法も確立してきているのでしょう。 でも、それだけでは説明できない。 「何か」が彼らにあって、今のところ、それを身につけているのが彼らだけの印象がします。

どうも見ていると「負ける気がしない」というオーラを出している。 自分が勝つイメージを持っていて、それに身体がついてきてくれる。 そんな感じがするんですよね。

それは、野球も将棋も相撲も「勝負事」であるのに「勝負」として見ていない。 自分の身体の動きに注意を払い「イメージ通りに動けたかどうか」を気にするコメントをしている。 というか「身体が動いてくれました」と他人事みたいに話す。 ちょっと冷めている、あの感じ。

他の力士も「身体が動いてくれた」とは言うけれど、それは言葉のあやで、心の中では「そう動けるようにトレーニングを積んだから」と自分の努力を誇りに思っている。 そういうのが大の里から感じられないんだと思う。

そうそう。 勝ち負けの世界にいながら、それがどこか他人事みたい。 でも、ホームランを打てば無邪気そうに笑うし、投げが決まれば表情がゆるむ。 試合を楽しんではいる。 押し出されれば、悔しそうにする。 感情を押し殺しているわけでもない。

でも、その負けたことを引きずらないんですよね。 前の場所は前半で負けが込んでいて「やはり大の里も人の子か」と思って観てたけど、後半になると取り組みを修正して勝ち越してしまう。 負けたら負けたことを分析して、次の日には繰り返さない。 「一度見た技は、我には通じぬ」みたいなラオウの風格です。

おかしい。 まるでマンガじゃないか。