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今日から使える「言語ゲーム」

黒と灰色の石のスタックの写真 – Unsplashの無料ボカラトン写真

まだわからないけど、わかった範囲でまとめておこう。

言語ゲーム

ウィトゲンシュタインの作った「言語ゲーム」という考え方。

いろいろ解説書を読んで「言語ゲームとはなんぞ?」と考えてきたけど、その考え方じゃあ「言語ゲーム」に行きつけないと思った。 「概念Aの本質とは何か」というタイプの「問いの立て方」が哲学に蔓延していて、それを笑い飛ばすのが「言語ゲーム」。 「〜とはなんぞ」と問うてしまうと落とし穴に落ちる。

それに、もし「言語ゲーム」の勘所がつかめたとして「わかったわかった」なら面白くない。 「わかって終わり」じゃなく、日常生活でも使いこなして、これまでとは違う体験を切り開くのじゃないと時間をかける甲斐がない。 生きることと直結したところの「言語ゲーム」を知りたい。 身につけたい。

すると「生活の中での言語ゲームとは何か」だろうなあ。 定義ではなく、どういう実践に繋がっているのか。 そこを考えてみたい。

語用論

ウィトゲンシュタインも「無」から「言語ゲーム」を思いついたのではないだろう。

ソシュール言語学を意味論や統語論、語用論に分類している。 その語用論が「どう使われているか」という観点なので、この系列に「言語ゲーム」は位置すると考えられる。

従来の哲学は「意味論」だった。 たとえば「意志とは何か」と問いを立て、その「意志」の本質を考えるのが哲学だった。 言葉より先に「意味」があるという前提で話が進む。 言葉を定義しようとすれば「何が本質であり何が偶有に過ぎないか」という論の構造になる。 その本質が「イデア」や「ウーシア」と呼ばれ、永遠不変の存在と考えられた。 あるいはカントのように「物自体が本質であり、人が捉えることができるのはその現象に過ぎない」とニヒリズムに陥ったりした。

ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」は、哲学を語用論として再構築しようという実験なのだと思う。 これはちょっと「言葉」について考えると納得の行くことで、子どもが言語を習得するときを見てみればわかる。 子どもは辞書的な意味を覚えたりはしない。 言葉を覚えるとは「定義」を記憶することではない。 文法を覚えてから言葉を話すのでもない。 定義やルールを教わることなく、ただ「言葉」を使うようになる。

「ネコ」は「ネコ」である。 決して「四足のネコ科哺乳類」ではない。 「ネコ」を覚える前に「ネコ科」を覚えるわけはないし、そもそも絵本に書かれた「ネコ」を見ても「ネコ」と呼ぶし、ぬいぐるみであっても「ネコ」だと認識する。 「その『ネコ』の本質は何か」と問いかけても、子どもは首を傾げるだけだろう。

語用論は pragmatics という。 ソシュールプラグマティズムから着想したのだろうか。 カントが『人間論』で pragmatisch という形容詞を使っていたので、そこまで遡れるかもしれない。 哲学から言語学に取り込まれ、その言語学から哲学に逆輸入された。 それが「言語ゲーム」の正体と思われる。

再創造

意味論と語用論の違いだとすると日常はどうなるだろうか。

もし意味論を採用すると「正解」があらかじめ存在することになる。 「学校」のような社会をイメージしてみるといい。 どの言葉にも「正しい意味」があり、人が対話するとしたら「どちらが正しいか」の力比べになるだろう。 「正論」のある世界である。 言葉は「情報を持つ者から持たない者への伝達」としてイメージされる。 互いが「自分は情報を持つ者」と自認するなら、その対話はディベートになる。

それに対し語用論は「言葉の正しい意味など知らなくても言葉は使える」の世界である。 そもそも自分がどんな定義をして言葉を使っているかさえ知らない。 そこでの対話は、その都度「言葉の意味」を作り直すプロセスである。 モデルとすれば「ディベート」ではなく「哲学対話」に近いだろう。 真偽判定が「正しいか/間違いか」ではなく「ぴったり来るか/来ないか」で行われる。

「ぴったり来るか/来ないか」は今話している文脈に「ハマるか/ハマらないか」の感覚である。 ハマれば「本当だ」とか「ほんまもんや」とかの感想が双方に生まれる。 決して「みんな違ってみんないい」の相対主義でもない。 どちらもが腑に落ちる落としどころを懸命に探す。 それが言語ゲームである。

自分を振り返っても、言葉の定義を知った上で話をすることは少ない。 「意味論的な対話」というのは不自然な状況である。 ないわけではないが、まあ、マウントを取るときですね。 「あら、知らないの?」とか言っちゃうとき。 漫才に譬えると「ツッコミ」のときが意味論的。 これはアイロニーでもあるから、思考を深めるのに必要なことでもある。 ちゃんとWikipediaで裏を取ってから考えよう、とか。

でもそれだけだと行き詰まります。 息も詰まる。 新しいものが生まれてこない。 「正しい」を一旦は棚上げして、二人の間で「ぴったり来るもの」を探してみる。 言葉を再創造する。 再創造は re-creation です。 もう一度その言葉が生まれる現場に立ち合う。

言葉遊び

言語ゲーム」の原語は Sprach Spiel で頭韻が揃ってるんですよね。 これ自体が言葉遊びになっている。 「言語ゲーム」も「ゲ・ゲ・」ではあるけど、わざと揃えたというより英語 language game からの直訳っぽい。

Spiel は英語の play に当たる言葉なので「スポーツをする」「役を演じる」「音楽を演奏する」といった場面を含みます。 「ブレイバーンの歌ってどんなの?」と聞かれても、定義や意味で答えることはできません。 ウィトゲンシュタインの言うとおり「歌を答えようとするなら、歌ってみるしかない」。 その感じが Spiel 。

歌を歌で答えるのは「再創造」です。 「もう一度歌う」という形でしか示せない。 言葉を考えることは、そのたびに「言葉」を創造すること。 話し合うたび「そうか、そういうこともあるのか」と発見を積み重ねる。 手段がそのまま目的であり、どこか別のところにゴールがあるのでもない。 いや「ああ、これかあ」がゴールでもあるかな。

これは「自己とは何か」でも同じだろう。 「自己」を示すには「自己として生きる」を示すこと。 これを意味論みたいに「自己の本質」という方向に進むと、出口を見失ってしまう。 「何か」が先にあって、それが「自己」と呼ばれるのだと考えると、「魂」なり「脳の構造」なりを持ち出すことになる。 それは意味論の罠だと思う。

語用論で考えればいつでも「自己」は示せる。 「ほれ、これが『私』なのです」と。 でもそれは、指示されるものが先にあるわけでもない。 活動としての存在だから。

仏教の無我論に似ているなあ。 ウパニシャッド哲学の、輪廻転生する主体としてのアートマン。 その「霊魂」みたいな存在を、仏教では否定してしまう。 薪が燃えている間そこに「火」があると見てしまうけど、「火」は活動であって、「火」という実体が存在するのではない。 「自己」もまた、そうした再創造である、と。

まとめ

言語ゲーム」はソクラテスがやってた対話ですね。 哲学は対話だったのに、だんだん「偉い人のひとりごと」になってしまった。

むしろ日常に「言語ゲーム」はある。 ただ、うっかりすると日常も意味論的な「正論でのパワーゲーム」になってしまう。 そこを避けるにはどうするか。