Jazzと読書の日々

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ワイアレスは繋がらない

white Apple AirPods|600 Backlink | Photo by Stephen Phillips - Hostreviews.co.uk on Unsplash

電車の中で見ていると皆さん、Bluetoothのイヤホンをしています。 補聴器みたいなやつですね。 右と左、別々に分かれたタイプ。 あれを耳につけている。 AppleAirPodsを出した2017年からでしょうか。 急速に普及しました。

コーデック

それ以前のBluetoothイヤホンはレシーバー部分とイヤホンが分かれていました。 Sonyのノイズキャンセラー付きを使ってました。 iPhoneをカバンに入れたままでも音楽が聞ける。 有線のイヤホンだと本体をポケットに入れるか膝に置くかになるから、うっかりすると落とす危険があるんですよね。 ワイアレスにするとその心配がなくなる。

なのでワイアレスイヤホンが普及する理由はわかるのですが、通勤電車で見ていると少し違うのです。 イヤホンをしてスマホの画面を見ている。 どうも動画を見ていたりゲームをしていたりする。 音楽を聴くのには使われていない。

何に違和感があるかというと、ワイアレスイヤホンにはタイムラグがあって、ゲームには不向きと思っていたんです。 動画とか見ても、唇の動きに遅れて声が聞こえる。 そんな印象がずっとありました。 倍速視聴とかいうのも、早送りすればタイムラグを意識しなくて済むからじゃないかなあ、とか。 そう思ってた。

いや「コーデック」が変わってきてるんですね。 一昔前はBluetoothで飛ばせる情報量が少なかったからデータ圧縮をして通信していた。 SBCという銀行みたいな名前のコーデックだった。 圧縮している分、解凍に時間を要してタイムラグになっていた。 AirPodsのコーデックはAACという低圧縮なのを採用しています。 それでゲームをしても遅延を感じない。 それで違和感がなくなっているのか。

ただ、例によってAACAppleの独自規格で他と互換性がありません。 自分ところのデバイス間でしか通信できない。 いけずです。 AndroidはaptX HDという規格を採用してますね。 プロファイルの方も、音声だけでなく動画のストリーミングに対応できるVDPというのが出てきている。 本体はカバンに入れ、ディスプレイだけタブレットにしたセパレート型PCも可能ということかな。

主と奴の関係

さて、気になったのはそこじゃないです。 「ワイアレスの馴染む社会が現代だなあ」と漠然と感じた。 物理的には切れているけど繋がっている。 リモートワークもそうだしSNSもそんな感じですよね。 携帯電話がそのものか。 繋がってないのに繋がっている。 その矛盾の上に成り立っています。

有線とワイアレスの違いは何か。 それは「承認」だと思いました。 有線には「承認」はないのです。 ブチっとプラグをはめ込むだけで音は聞こえてくるのだから。 承認もなにも、直接接触してるのだから接続している。 わかりやすい。

無線は宛名を持たずに漂っています。 そのままでは無法地帯でどのデバイスの電波を拾うかわからない。 それで「ペアリング」という契約を結びます。 「パスキーを入れてください」と言われ「はいはい」と入力。 「承認しました」と言われ接続ができる。

承認には「承認する側」と「承認される側」の上下関係がある。 有線にはそれが起こりません。 毎日顔を合すのだから、嫌なやつでも「他生の縁」ということで付き合うしかない。 「嫌なところもあるけど悪いやつじゃない」というスタンスを採る。 上下はあるけど親分は子分の面倒を背負い込む。 肩を持つ。 それが有線の世界です。

承認の上下関係はこれではない。 「承認する側」に関係を切る権利が与えられている。 ヘーゲルの「主と奴の関係」ですね。 「承認する側」は「主」ではなく「奴隷」のほうです。 奴隷は自分の生存のために、ある人間を「主人」として承認している。 それがヘーゲルの洞察です。 奴隷はいつでも裏切る権利を持っている。 奴隷からの承認がなければ主人は裸の王様。 「自己肯定感を与える側」が server(仕える者)なわけです。

ワイアレスな時代

すると昨今の「承認欲求」はこれかあ、という気がしてきました。 昔は承認欲求なんて言葉はなかったです。 マズローがなにか言ってたけど、あれは「俺ってできるじゃん」という感覚です。 他人に承認されることではない。

ワイアレス機器が増えたから承認欲求が増えた、ではありません。 承認という発想が常識に登録されたからワイアレスが普及した、です。 そこに違和感を持たずに済むようになった。 有線は、まあ、面倒くさいんですよ。 自分の稼働範囲を限定してしまう。 好きなところに行きたくても「絆」が邪魔して思うように動けない。 家業を継いで漁師になるしかなく、同級生の床屋で髪を切るしかない。 それが有線の世界です。

承認が蔓延り出したのは90年代からかな。 怒ることを「キレる」と表現するようになった頃。 仲間外れにすることを「ハブる」と言い出したあたり。 承認の原型がありますね。 「繋がる/繋がらない」がコントロールできるようになった。 それも一方的に。

それ以前も「村八分」はありましたが、「八分」だから「二分」の繋がりはある。 冠婚葬祭については村も援助するという前提です。 まったくオフにするという排除はありません。 ワイアレスとはそこが違う。

まず教育かなあ。 高校や大学への進学率が増えた。 入学試験は「一方的な承認」ですからね。 しかもAO入試や推薦入学が採用され始める。 「承認する側」と「承認される側」の乖離が起こります。 何を承認されるかは「承認される側」にはわからない。 そういう構造ですね。 「あなたは何を望んでいるのか」と悩み続ける。 そんなの答えがあるわけないのに若者を苦しめています。

それからバブル崩壊後の就職難。 これは「家業の崩壊」が背景にあるのですが、どこかの企業に採用されることが「働く」となった。 そういう仕事観はそれ以前にはないことです。 面接を受けて「承認されること」が条件になります。 不採用になれば「食べていけない」とされる。 そうすると「正しいパスキーは何か」と正解探しのマニュアル本が売れるわけです。 どういう仮面をつけるか、どういうキャラを演じるか。 それが人々の関心事になる。 「実存から生存へ」はこの変移のことだろうか。

まとめ

有線は面倒くさかったので全然戻りたいとは思いません。 ただワイアレスな時代は互いを「奴隷」にしようとする難点がありますね。 マウントの取り合いになる。

どっちがいいとも言えないなあ。 「働く」は「傍が楽になる」がいい。