Jazzと読書の日々

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システム理論をテキスト学に取り込めないか

エヴィデンス主義から逃れるために。

システム理論

物語としてのケア―ナラティヴ・アプローチの世界へ (シリーズ ケアをひらく)
野口 裕二
「ナラティヴ」の時代へ「語り」や「物語」を意味するナラティヴ。人文諸科学で衝撃を与えつづけているこの言葉は,ついに臨床の風景さえ一変させた。臨床の物語論的転回はどこまで行くのか。「精神論vs.技術論」主観主義vs.客観主義」「ケアvs.キュア」という二項対立の呪縛を超え,新しいケアがいま立ち上がる。

システム理論とは、哲学者グレゴリー・ベイトソンが考えたコミュニケーション理論です。 ミルトン・エリクソンという催眠療法家の面接場面を分析し、人が変わるとはどういうことかを考察した。 その理論を実践に用いることでシステム療法が発展してきました。 ナラティヴ・アプローチはそのうちの一つです。

これを「書く」にも応用できたら面白いと思う。

偽解決ループ

問題解決を考えるとき、まず問題の原因を考え、それを解消することで問題を解決しようとします。 それが一般的な「問題解決」の方法です。 その方法でうまく行くならそれでいいですが、うまくいかないときはどうしましょう?

システム理論では「問題を解決しようとする努力が問題を再生産している」と考えます。 問題の原因よりは、問題を維持している「システム」を考える。 問題解決は「問題」の存在を前提としています。 解決を正当化するには「問題」があることが必要になります。 「こうしないと悪いことが起こる」と予言することは、その予言が当たることを願っています。 「ほら、私の言ったとおりにしないからだ」と後で言いたいからです。 これを自己予言成就と呼びます。 たいていのハウツー本には、こうした「予言」が組み込まれています。 言われた通りにはできない仕掛けが隠れている。

これを「書く」に応用するとどうなるでしょうか。 たぶん「こう書かないといい文章にならない」と予言しないことでしょう。 自分に呪いをかけない。 書けないことの「原因」を探すより、まず下手でも書くことです。

問題の外在化

そうは言っても、スラスラ文章が出てくるわけではありません。 自分には才能がないし、アイデアをまとめる文才もない。 そもそも想像力が貧困で、いつも失敗続きで、たぶん発達障害なんじゃないか。 そんなふうに、自分で自分のことを「物語化」しています。 これを「ドミナント・ストーリー」と呼びます。

世の中のストーリーはドミナントです。 「原因はあなただ」と自己責任を求めてきます。 炭治郎でさえ「責任から逃げるな」と追及してくる。 テレビではいつも「誰が謝罪すべきか」を映している。 繰り返し「責任」を刷り込んできます。 それが現代社会の特徴です。 (そしてデジタル庁は謝罪しません。政府には主体がないからです)

でも「原因」が「私」なら、実のところ打つ手はありません。 性格や脳に原因があるなら、その「私」に何ができるでしょう。 ドミナント・ストーリーも自己予言の呪いです。 「うまく行かない」を演じることでストーリーの正当性を検証し「またうまく行かなかった」と諦める。 袋小路になっています。

システム理論は「問題」を「その人のこと」にはしません。 「問題」自体は外のこととし、それと「自分」との関係を考える。 そこが突破口になります。 「問題」が「自分」にどう影響しているか。 その影響に対し「自分」はどう応えることができるか。 それなら言葉にできる。 そこから生まれるのが本当の「責任 response」です。

ドミナントな物語から距離を置き、自分で自分の物語を書き直すこと。 これを「リヴィジョン」と呼びます。 「振り返ること」と「改定すること」が重なっている。

奇跡の質問

とはいえ、何を書けばいいの? 自分で自分を褒めればいいのかな。 ポジティブな自分を演じて自己肯定感を高める。 承認欲求を満たす物語を作ることだろうか。

たぶん、それは嘘くさいでしょう。 そんな物語、読んでも恥ずかしいだけです。

そもそも「どうすればいいか」は手段を尋ねています。 手段は目的地が見えなければ役に立ちません。 「どうなるといいのか」と目的地を問うこと。 手段が戦術で、目的が戦略ですね。 手段を問う前に目的を明らかにする段階があります。

システム理論では「奇跡が起きて何もかもうまく行ったなら、どういう未来になりそうか」と問いかけます。 これはPDCAの「計画」ではないですね。 むしろ「欲望」です。 ドミナントな社会は「欲望」を「責任」にすり替えようとします。 「目標を決めてそれを実行する」だと、それは「責任」。 ノルマ達成に縛られ、ひたすら苦しい。

だからノルマではない「書くこと」が必要です。 自分の未来を夢見ること。 そうした「欲望」を育てるためのテキスト。 それが「書くこと」の原動力になります。

まとめ

医療におけるナラティブとエビデンス 改訂版──対立から調和へ
斎藤 清二
ナラティヴ・ベイスト・メディスンとエビデンス・ベイスト・メディスンは,臨床においての「両輪」とも言われますが,実際にどう両立させるべきなのでしょうか。本書は,この2つの詳しい解説をしつつ,両者を統合した次世代の臨床能力を具体的に提案するものです。目の前の患者の語りを聞くナラティブ・スキルと,医学本来の実践知であるエビデンス・スキルの双方が矛盾することなく存分に発揮されることが,医療者の最良の姿。この2つのスキルに焦点をあて,科学万能論でも精神論でもない新しい医療の姿を示したこの本は,対人援助サービスや臨床にかかわる,すべての治療者・支援者の座右の書になる1冊です。(好評のため,改訂版を出しました。)

システム理論は精神分析に取り込まれ、ストロロウの間主観性分析にも影響しています。 あるいはオープン・ダイアログの源流にもなっている。 そこにあるのは「心とは対話である」という哲学です。 「心が通い合う」という言葉の通り、他者との出会いを通して生まれるものが「心」。 脳の中に閉じこもってはいません。

書くことも同じでしょうね。 ひとりで考えていても「心」は生まれません。 孔子さんもそんなこと、言ってたなあ。 自分とは異なる人に話しかけてみること。 ソクラテスのように。 たぶん、それが「書くこと」の第一歩だと思います。