Jazzと読書の日々

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「システムで考える」を考える

island surrounded with water with trees|600 Backlink | Photo by Zunnoon Ahmed on Unsplash

昨日の文章は読みにくい。 「この言葉を入れなきゃ」と新しく知った概念を書き入れながら「自分の意見も書かなきゃ」と焦ってますね。 どちらも不十分で、未消化なまま言葉が上滑りしています。

まあ、最初はそんなものでしょう。 ブログの利点は「同じテーマを何度書いていいこと」。 どこかの雑誌に発表するわけじゃないし、気楽に行きましょう。 いろんな角度から取り組んでいるうちに、どこかで自分の言葉になっていく。 雨乞いの儀式のように、雨が降るまで踊って構わない。 何かが降りてきたら儲けモノです。

システムとは何か

そもそも「システム理論」のシステムとはなんでしょう。 これがわからないですね。 その定義から始めないといけなかった。

システムは「全体は個の総和ではない」という考え方です。 昔プロレスラーで「俺たち一人一人はただの 1 に過ぎない。でも二人になれば 100 だ。1 x 1 は100 だ」と名言を残した人がいましたが、それですね。 計算が合わないですが、気にしてはいけません。 相乗効果は計算の埒外にあります。 その相乗効果を考察しようというのがシステム理論です。

通常の科学は還元主義です。 個に分割し、その個を分析していく。 タンパク質を分子に分け、分子を原子に分け、原子をクォークに分ける。 それも大切な研究ですが、車輪の片側に過ぎません。 クォークの研究を重ねてもタンパク質の性質はわからない。 タンパク質には、タンパク質としてのまとまりがあるからです。

それと同じように、人間社会を見るとき、個々の人間だけ見ていては見落とすものがあります。 実験室では「冷静で合理的な人」であっても、野球場で贔屓のチームを応援するときは熱狂的になります。 罵声も発する。 会社に行けば、部下思いの情にアツい上司かもしれません。 集団に飲み込まれるときもあるし、文脈に応じて役割をこなしているときもある。 それを「分人」と呼ぶのは「個」に囚われています。 まず、その集団=文脈を研究対象としていく。 それが「システム論」です。

参与観察

ベイトソンは人類学者でもあるので、フィールドワークの哲学が入っています。 アフリカの部族と一緒に暮らしながら、彼らの習俗を調査する方法。 システムを外部から観察するのではなく、内部に入り込んでリサーチする。 内でありながら外であり、外でありながら内である。 これを「参与観察」と言います。

なので、ベイトソンの「システム」はレヴィ=ストロースの「構造」に当たります。 アメリカの「システム理論」はフランスの「構造主義」。 そう捉えると、当時の状況が読み取りやすい。 二度の大戦を経て、自分たちの文化に自信が持てなくなった。 よその「部族」ではなく、この「西洋の構造」はどうなっているのだろう、と。

この「構造」とは群衆心理のような暴発するものではなく、日常に潜む、ユング集合的無意識に近いものでしょう。 自分自身が集合体の一員でありながら、その集合体を考察するにはどうすればいいか。 そこに「参与観察」を応用した。

クラインの壺

考えてみると、ブログは「参与観察」です。 日常を生きながら、日常で疑問に思ったことを考察する。 別に研究室を持っているわけではない。 実験をしているわけでもない。 常日頃の「日常」がテーマであり、そこにじんわり浸っています。

ライフハック「ライフ」「日常」のことです。 「日常」というシステムを研究している。 手帳の書き方を工夫したり、エディタにプラグインをいれたりする。 すると「それまで」と「それから」の間に変化が起こります。 その「変化」をよくよく見てみる。 言葉にしてみる。 そこから「日常」の構造を捉えていこうとしています。

おお、そういうことか。 ライフハック自体がシステム論です。 ここまで書いて気づきました。 いやあ、これはこれからどうなるんだろう?

まとめ

「便利になった」って感覚をもう一歩踏み込むと、「私が生きているシステム」を意識化する手掛かりがあるということかな。 普段の生活がそのまま「構造」の研究。