Jazzと読書の日々

iPadを筆記具として使う方法を模索します

訂正可能性の哲学

そういえば父が生きていた頃、何かと職場の若い衆を家に連れてきて宴会を開くことがあった。 鍋パーティだったり、釣ってきた魚の刺身だったり、季節によって趣向は異なるものの、タバコの煙で部屋はもうもうとなり、腕相撲大会が開かれたり麻雀が始まったりして、夜遅くまで騒がしかった。

まあ、たいていはそのままグテングテンの酔っぱらいの雑魚寝になっていて、次の日の朝はその知らないお兄さんたちと朝ごはんを食べる羽目になったものだ。

大学の頃は花火大会があると、ゼミの教授が家に招いてくれて、学生たちがそこから花火を眺める習慣があった。 奥さんの手料理が振る舞われ、教授の秘蔵のワインが回し飲みされ、そのまま外に出ていって帰らなくなるアベックもいたり、先輩たちと肝試しを兼ねて夜のお寺に参拝に行ったりもした。

訂正可能性の哲学

そうそう、何が書きたいかというと昔は「客」がいた。 どの家も「客」を招き、見知らぬ人とともに寝泊まりした。 「客」というのは身近な存在だった。

東浩紀の本を読んで思うのは、その「客」の存在感の薄さである。 自分を振り返ってもそうだが、家に客を招くことがほとんどない。 いつの間にか、日本全体から「客」がいなくなっているように思う。 コロナが拍車をかけたかもしれない。 親戚でさえ、法事で集まる機会がなくなった。 集まったとしても寝泊りはしない。 寝泊まりどころか食事さえしない。 法事が終わればお寺で解散になる。 家に招かれることはない。

客とは「ウチでもソトでもない存在」である。 軽々と境界線を超えて出入りする。 民俗学的には「マレビト」のことである。 ある時点まで日本のコミュニティには「客」が確かにいた。 「客観」という言葉も、その「客」の存在なしには意味をなさない。

観光客と家族

東浩紀は「ウチでもソトでもない存在」として「観光客」を挙げる。 そこに少し違和感を感じる。 そして、その違和感が「現代」に対する違和感だと気づく。 現代には「客」がいない。 かろうじてメタファーに使えるのが「観光客」というわけだ。

さらに、その「観光客」を「家族」に敷衍する。 現代の「家族」もまた「ウチでもソトでもない存在」だ。 コミュニティの境界に位置している。 その事実を東浩紀は確認していく。 ウィトゲンシュタインアーレントを使って「家族」という概念に揺さぶりをかける。 これが決して「ウチ」を表す閉じたコミュニティではないことを示す。

たしかにその通りだ。 家族は境界的な存在だ。 ウィトゲンシュタインが「オレ、そんなこと言った覚えないけど」と苦笑いしそうなアクロバットを見せる。 この論が共感を呼ぶとしたら「現代」において「家族」がもはや「ウチ」でなくなったからだろう。

じゃあ「ウチ」には何があるんだ、と疑問が浮かぶ。 家が「おうち」でなかったら、どこに「ウチ」があるんだ?

「ウチ」はない。 空っぽである。 「ウチ」は空集合でできている。 それは「現代」の話ではなく「家族」の本来の姿である。 「ウチ」は「客」を招き入れることで、あとから「ここが私のウチである」と名指すことができる。

「客」が出入りしない空間は「ウチ」ではない。 そこは「ソト」である。 「敵」のエリアだ。 引きこもりというのは、「ウチ」を探しながら「ソト」に排除されてしまう状況を指すのだろう。 そこでは心休まることがない。

人文学としてのウチ

途中で「人文学とは何か」の考察が入るのが面白かった。 人文学がなぜ、先行するテキストの引用で構成することになるのか。

通常の科学であれば固有名詞は出てこない。 人文学だけが「アーレントによると」と人名を出して考察を補強する。 これを権威主義的とかカルト的と捉えるのはお門違いである。 人文学はこの形式でしか考えを深めることができない。

東浩紀の説明はトートロジーなので説得力はないが、それは大事なところだからである。 大事なところは言葉で体系化できない。 それ自体が土台だからである。

考えてみると、こうした先人たちは「客」として召喚されている。 客として招かれ、ご馳走を平らげ、それぞれが自説を開示する。 プラトンの『饗宴』がモデルになっているのだろう。 この宴の雰囲気こそがシンポジウムであり「人文学」である。

この交配を経て、事後的に「ウチ」が生まれる。 「ウチ」を描く方法はこれ以外ない。

まとめ

訂正可能性はノイラートの舟だろう。 そこは新しくない。

ただ人工知能はそんなことを知らない。 するとPSYCHO-PASSな世界が立ち上がるんじゃないか、と懸念が浮かぶ。 プラトンの哲人国家。 「客」をバグとして排除する世界。

それと闘う概念に「家族」はなれるのだろうか。

追記

考えたら「家」は古代ギリシアでoikosだった。 初めから経済(economy)の単位でしたね。 日本も「吉野家」みたいに「家」は屋号であるので、経済単位を意味しています。 「客」が来ないことには成り立ちません。