NHKの「100分 de 名著」シリーズは年寄りに助かる。 余生が少ないと、原書を読む時間がないからなあ。 頭が回るうちに読んでおかないと。
精神現象学
こちらはオーソドックスに「弁証法」の話。 でも単純な「テーゼ→アンチテーゼ→ジンテーゼ」じゃないですね。 「弁証法」を「話し合い」と読み替えての読解です。
「精神」を「私たち」とパラフレーズしているのがミソ。 ヘーゲルの生きた時代は、隣の国のフランスで「革命」が起こっていた頃です。 「自由の時代」が到来した。 「私たちの自由」とは何か。 それが哲学のテーマとなります。
それまでは「革命の準備期」というか、哲学は「私の自由」を考えてきました。 デカルトにしてもカントにしても「私」を考え「私は何にも依存しない」を考えてきた。 「自由」はずっと中心テーマにありました。 その「私の自由」が現実的になってきた。
ヘーゲルの関心は「自由な私と自由な他者が出会ったとき、どうなるのか」です。 「私の自由」が実現した後のこと。 初めて「他者」を発見したと言ってもいい。 「私」と異なる価値観で生きている存在。 その「他者」とともに社会を形成する、つまり「私たち」となるには何が必要になるんだろう。
これは「現代」においても通用する、大切なテーマ。
ポイントとなるのが「弁証法」です。 「私もOK、あなたもOK」。 そういう社会になるために一度「自己否定」を通り抜ける。 自分の信じる「正しい」は本当に正しいのだろうか、と保留する。 そして「あなた」と向き合う。 頭ごなしに否定するのでもなく、かといって無批判に受け入れるのでもない。
そうした「話し合い」が「弁証法 Dialektik」の意味です。
実体
途中つまずいたのが「実体」という概念。 ヘーゲルがよく使うんだけど、何を指しているのかピンと来ません。
ただ、読んでいて「アリストテレスのヒュポケイメノンのことかな」と思いました。 キリスト教の「ヒュポスタシス」に受け継がれる概念で「実体」と訳されるけど、もとは「下で支えるもの」くらいのニュアンスです。 「基盤をなすもの」と読み替えると意味が通りそう。 「パラダイム」や「エピステーメ」あたりを指している。
時代の変わり目ではこの「基盤をなすもの」が揺らぎます。 流動的になる。 それぞれが「私の自由」を主張すると対立や矛盾が生まれる。 ヘーゲルはそれを「とても良いことだ」と考えました。 次の「基盤をなすもの」を生み出す契機となるからです。
「私たち」は、「私たち」とは相容れない「他者」と出会うことで、より大きな「私たち」になります。 それが「弁証法」です。 この「私たち」を「基盤をなすもの」が下支えしてくれている。 そういうイメージになるかな。
「書くこと」に絡めると、「他者」は「読者」ですよね。 テキストを通して「私」は「あなた」と「私たち」を形成しようとしている。 これは同調や調和ではありません。 今までのパラダイムを否定し、新しいパラダイムを「基盤」とすることです。
そもそも「書くこと」は「伝えること」ではありません。 読者は「書かれたもの」を意図通りに読むのではない。 それぞれが、そのとき抱えている問題意識に沿って読んでいます。 響かないところは読み飛ばしてもいる。 それでも読書は成り立つ。
「読者」が変化する触媒となる。 それは、書くことによって「書き手」も変化するようなテキストです。 自分の中でパラダイムが変化している。 大きく変わるようなのはそうそう書けるものじゃないけど、こじんまりした振動ならあるでしょう。 そうした体験がテキストを通して「読者」にも伝染する。
「伝えたいこと」じゃなくて、もっと根源的な「振動」で「私たち」になる。 わかり合えなくても「また会いましょう」と思える出会い。 そういうの、あるじゃないですか。
まとめ
「方言」が「Dialekt」なんだけど、「Dialektik」の想定する「他者」は「自分とは異なる方言を話す人」なんだろうか。
すると『沖ツラ』でやっていることが「弁証法」かも。 「私」が、異なる文化背景の「あなた」と出会って「私たち」になる。 哲学とは、そうした物語を紡ぐこと。
ヘーゲル「精神現象学」3月 (NHKテキスト)