Jazzと読書の日々

iPadを筆記具として使う方法を模索します

読み方に見られる2つのパターン

ヘーゲル再入門』と『100分 de 名著』を読んで思いました。 この2つ、視点が違う。 視点が違うけど、結局は似てるのです。

それは何か。

ヘーゲル

「私の自由」が「私たちの自由」になるにはどうすればいいか。

「本を読む」もそういうことですね。 「ヘーゲルを読む」とは、ヘーゲルと「私」との間で「私たち」が生じることだから。 もちろん、生じないかもしれないし、生じないなら生じないなりに読んだ意味がある。 それが「読書」だろうと思います。

その「読み方」に二つのパターンがある。 転生型と憑依型。 それが最近の発見です。

転生型

こちらからあちらの世界に行く。 それが転生型です。

ヘーゲル再入門』のほうはそんな感じの書き方になっています。 「ヘーゲルと言えば弁証法」みたいな話を高校の倫社で習ったりするんですけど、いや、本当かなあ。 もう一度ヘーゲルが生きた時代に戻って、先入観なしにヘーゲルを読み直してみよう。 それが『ヘーゲル再入門』のスタイルですね。

ヘーゲルがどんな時代を生き、どんな本を読み、どんな問題意識を持っていたか。 川瀬先生がヘーゲルの時代に「転生」し、当時の様子をレポートしてくれる。

そうすると「弁証法」は後の時代に作られた「ヘーゲルの読み方」であって、ヘーゲル自体はもっと流動的な、変化し続ける「人間のこころ」を描こうとしていたのではないか。 そう気づかせてくれる入門書になっています。

とはいえ、川瀬先生もまったくの手ぶらではない。 現代人としての視点は持っているわけで、ヘーゲル以降の世界がどう変わっていくのかも知っています。 知っている上で、ヘーゲルの思考を追体験しようとする。

アニメで言えば『全修。』のパターン。 読者はヘーゲルの住む世界に転生して、彼といっしょに問題を解決しようと悪戦苦闘する。 19世紀にドイツが置かれた状況を潜り抜けることになります。

憑依型

憑依型は、あちらのモノがこちらに憑依し、現代を見るタイプです。

もしヘーゲルが現代に転生したら、彼はどんな解決策を提案するだろう。 そういう「読み方」かな。 アニメで言えば『日本にようこそエルフさん』だろうか。 向こうがこっちに来るタイプ。 結構「この世界」もヘンテコだったりする。

『100分 de 名著』はこちらですね。 ヘーゲルが作り出した概念を「ツール」として利用しながら、「LGBT」や「エヴィデンス」の問題を考える。 政治と経済の関係とか、自由主義と民主主義の違いとか、別の時代の視点を活用することで、それまでは「当たり前」と思って見ずにいたことが、新しい切り口で浮かび上がってくる。

書いている斎藤先生に「ヘーゲル」が憑依し、その「ヘーゲル」が異世界人として「現代」を分析している構造になっています。 「弁証法」も「分断を乗り越える思想」として新調されている。 この切れ味がいいですね。

今の時代、早急なグローバリズムと、それに付いていけない分断主義が葛藤を起こしています。 どちらも「私たちの自由」という観点から見ると、不十分です。 誰かに不自由を強いている。 同調圧力が働いている。

誰かが不自由だということは、誰もが自分の中に「不自由」を抱えているということです。 無理をしている。 その無理が表に現れると「みんな同じ」だったり「あいつらは敵だ」だったりする。 一見正反対に見えて、この二つは同じものの裏表になっています。

そこをヘーゲルだったら、どう考えるか。 その思考実験をする。 それが憑依型の読解です。

まとめ

青空文庫を読み直して「明治の文学はそれがテーマだったのかな」と思いました。 『杜子春』とか、ほんと、いま見ると転生モノですよね。 仙人の世界に転生して、その中で「私」を発見する。 急激な西洋化でパラダイムが揺れたのだろうなあ。

あ、でもまだ「私」止まりか。 現代の転生モノが「パーティ」を構成するのは「私たち」を扱うためだろうか?