Jazzと読書の日々

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「フロイトに帰る」とはどういうことか

こんな読みやすいラカン本は今までなかった。

ジャック・ラカン

フロイトの5つの症例について、ラカンがどうコメントしたか。

そうだよなあ。 ラカンはサンタンヌ病院のお医者さんなのだから 「臨床」をバックボーンに持っています。 実践に役立たない理論を言っているはずがない。 事例と関連付けないと真価は見えてきません。 良い切り口です。

フロイトもですね。 精神分析は日々の治療から得られた知見です。 それと切り離して理屈をこねても意味がない。 どういう症例をもとにどういう発見をしたか。 この本はフロイトを知るにも良い内容になっています。

挫折の哲学

フロイトのすごいところは、 失敗した事例を論文に残しているところです。 精神分析の宣伝をしたいなら 「お困りの症状がスッキリ解消!」 みたいな本をいっぱい書くでしょう。 売れて売れて、本屋さんも大喜びです。 でも彼は、そうした自画自賛をしなかった。 むしろ失敗例を取り上げ「そこから学ぶ」という姿勢を貫いています。

「挫折したところ」に自分を知るヒントがある。 「ヤスパース」の後に読むとしっくりきます。 「挫折の哲学」の実践例ですね。 よく考えたら、二人は同時代のご近所さん。

やっぱりすごいのは「失敗した理由」を患者さんのせいにしない。 まず自分を振り返り「どこに落ち度があったか」考えている。 しかもそれが自責にならない。 自分と患者の相互作用に注目し分析します。 もし違う関わりをしたらどう展開したか。 それをシミュレートする。 それが「フロイトの臨床」です。

ラカンの関心はココにあります。 フロイトの理論ではありません。 「理論」は所詮「実践」の出涸らしに過ぎない。 そもそもフロイトは何をしていたか。 それを追体験し、 フロイトが言葉にできなかったモノを名付けていく。 それがラカンの業績です。

弁証法的反転

ちょうど『中論』を読みながらなので、 テトラ・レンマが透けて見えます。

  1. 中断は患者のせいである
  2. 中断は自分のせいである
  3. 患者のせいでもあるし、自分のせいでもある
  4. 患者のせいでもなく、自分のせいでもない

こういう構造をしていますね。 フロイトはこの順に検討しています。 責任逃れじゃないですよ。 関係性を観察しているのです。 ラカンはこれを「弁証法的反転」と呼びます。

どうなんだろう。 後の精神分析家で同じところに注目した人はいるのだろうか。 一般向けだと 「患者がパーソナリティ障害だった」とか「発達的課題があった」とか、 面接が中断したとき「レベル1」の説明をしてそうな。 あるいは、もう少し踏み込んで 「そのとき転移に気づかなかった」とか 「自分の逆転移だった」と反省する「レベル2」で止まっている。

でも多分、相互性を超えたところで仕事する人もいるだろうなあ。 でないと、お仕事が続かないでしょう。 扱いやすいケースだけ来るわけでもないし。 自分が相談に行ったら絶対「面倒くさいほう」に入る自信があります。 「金返せ」は言うと思う。

美しい魂

ラカンヘーゲルの「美しい魂」を引用します。

これは、どう説明したらいいかな。 まあ、この世界には「行為する人たち」と「批評する人たち」がいる。 「行為」は頑張って世界を変えていこうとするけど、 うまくいくときもあればミスするときもある。 見落としもあるし周りに迷惑をかけることもある。

「批評」はそんな「行為」を見て 「あれがダメだ」「これに考えが及んでいない」と小言を言います。 チクチクと揚げ足折りをする。 それはなぜか。

それは「美しい魂」でいたからです。 汚れたくない、傷つきたくない。 自分では何もしたくない。 そこには挫折することへの不安が潜んでいる。

こうした状況は社会にもあるし、 ネット上にもあるし、 個人の心にもある。 「行為パート」と「批評パート」に分裂しています。 今でも文章を書きながら 「そんな説明で誰がわかるか。下手くそ」と「批評パート」がダメ出ししてきます。 う、うるさい。

ヘーゲルはその解決策を「赦し」だと言いました。 「行為」は「批評」の言葉に 「私のことを心配してくれているんだね」と感謝する。 「自分が傷つくのは誰でも怖いものなあ」と理解する。 「批評」も「そう、自分が傷つくのが怖い」と気づけば、 その対立関係は解消します。 分裂していたものが修復する。

ただ「批評」が気づくには時間がかかるみたい。 それまでは面倒くさいんだよなあ。

まとめ

そうか、 「書く」とは「行為」と「批評」の弁証法なのか。 ちょっと修復。