これは回り道しているだけ。
サンタグマとパラディグマ
「イルカ」がベントソンの学習理論を表しているということで読み始めましたが、思ったほどイルカのことが書いてなくて肩透かし。 イルカの話、好きなんだけどな。
「ベイトソンのイルカ」というのは、飼育員さんがイルカに芸を仕込んでいると、途中からイルカがわざと「他のイルカに仕込まれている芸」を始めたり「教えてもない芸」をやり出したりして飼育員さんを困らせる話です。
いやあ、イルカってかわいいなあ。 愛でてよし、食べてよし。
でも斎藤先生の話だとすぐ「イルカ」から離れて「コンテキストのコンテキスト」とか言い出すから「この人、コンテキストで生きてるのか」と思いました。 言いたいことがあらかじめあって、そこに繋げようとする。 この発想では窮屈でしょうに。
全体は「脳と心」の二項対立です。 脳というのは、物事の一貫性を探し出してしまう妄想的な臓器ですね。 心は、そうした一貫性ではうまく説明できないパラドキシカルな部分です。 脳を「コンテキスト」、心を「否定神学」で説明する構造になっています。
なぜこんな回りくどいことをするかと言えば、斎藤先生がいま「オープンダイアログ」という治療法を臨床で用いているからで、これが万病に効く。 スタッフが二人以上で患者さんや家族と会い、一緒に「対話」すると、お薬を使わなくても症状が落ち着く。 そうしたアプローチがサウナの国フィンランド発祥で広がっています。
この治療法は方法論がしっかりとしています。 けれど「なぜ効くのか」の理論はありません。 一応あるにはあるけど、斎藤先生にはしっくり来ない。 そこで、ベントソンとラカンを持ち出し、機序の基礎づけをしようという目論見です。
でもたぶん、はずしてますね。 喩えてみると、火事になって火災報知器が鳴り響いている状態を思い浮かべてください。 そのとき、燃え広がっている火を消すのではなく「火の元はどこだ?」と原因探ししているのが斎藤先生です。
これ自体が「原因→結果」の因果論。 ご自分で言ってられるように、こういう因果論は脳が作り出す「コンテキスト」です。 「わからないことに耐えきれない」という、人間の弱さ。 陰謀論の源と言ってもいい。 それはそれで「人間らしさ」でもあるけど。
オープンダイアログの基礎はシステム療法なので「因果論から離れよう」から始めないと取り掛かることはできません。 火事であるなら、まず燃えているところを見る。 すると「問題解決しようとする行為が、その問題を維持している」という悪循環が見つかります。 そこが「プロセスで考える」の勘所。
中動態
なので、この本のポイントは、後半の後半でやっと出てくる「引きこもりは中動態ではないか」ですね。 ここだけ広げるので良かったのに。 國分先生の発見には、こういう応用もあったかと気付かされます。 射程が広い。
今の言語構造には「能動態か受動態か」の二通りしかありません。 でも、サンスクリットや古代ギリシア語とかには、それらとは別の「中動態」があった。 それが忘れ去られているから、現代ではいろいろ無理が生じる。 それが「病理」として現れている。
ただ、國分先生の「哲学は中動態を排除してきた」にはちょっと賛同できません。 古代ギリシア語にはあったんですよ。 ということは、ソクラテスもプラトンも、ニーチェもサルトルも、どこかで「中動態」の話をしているはずです。
少なくともアリストテレスの「中庸」は「メソテス」の話だし、フロイトの「中立性」もそうでしょう。 それを語ろうとしながら、語彙が足りずに困っている。
中動態が復活することで、実はいろいろと読み直せるんじゃないかと思います。 「プロセスで考える」とはまさにそこで、オープンダイアログの要件になっている。
「能動態か受動態か」では「原因→結果」や「刺激→反応」の図式でしか語れません。 「中動態」を持ち出せば、この図式の外に出ることができる。 ラカンが多用する「虚辞のne」や「再帰代名詞のse」は現代フランス語で「中動態」を表現する工夫です。 ベイトソンもミルトン・エリクソンの研究で「治療者が自ら催眠状態にあること」に着目しています。 自分の中の主体に眠ってもらう。 自己を習ふは自己を忘るるなり。
既に「中動態論」は語られてきた。 なのに、それに続く者たちが気づけなかっただけかもしれません。
この本を読みながら『身体と魂の思想史』を思い出しました。 だいたい同じ哲学者の概念や科学的知見が並んでいて「身体性」がテーマとなっていた。 斎藤先生の方が「声」を扱っていて、一歩踏み込んでますね。 「声」は幻聴の鍵であるし、オープンダイアログの要でもあります。 「声」から「身体」が失われると「幻聴」となり、「身体」を取り戻すと回復に繋がる。 同じポリフォニーなのに不思議なことです。
そもそも「欲望する」が古代では中動態なのがポイントでしょうね。 それが能動態化することで「自由意志」という概念が生み出され「自己責任」が幻聴化する。
ここを現代社会においてどう調整するか。 「責任」を否定しても仕方ないし、何もかも「責任」にされるのは重苦しい。
まとめ
イルカは「この地上で二番目に知能の高い生物であった」とあります。 そうそう、彼らは中動態を遊んでいるからなあ。 人間より賢い。
イルカと否定神学――対話ごときでなぜ回復が起こるのか (シリーズケアをひらく)