近所の本屋にない。 Kindleにしてくれませんか。
中論
清水先生の新刊が出て気になってます。
ナーガルジュナの『中論』は正面から取り組みたい。 でも原著を読んでも追い返されるのは目に見えているので、まず概略を掴みたい。
となると、いま信用できるのは清水高志かな、と。
清水高志
とりあえず、インタビューを読む。 ふむふむ、わからん。
なのでWebクリップし、ObsidianのCopilotで分析しました。
{activeNote}の内容を簡潔に構造分析してください。
インタビューでは、清水氏の哲学的背景、西洋哲学における二元論的思考の限界、インド仏教における「テトラレンマ」や「縁起」の概念、ナーガールジュナの『中論』における主語と述語の批判、そして道元の思想との関連性が論じられています。
特に、ナーガールジュナが『中論』で批判する「説一切有部」の「法有」という概念と、それを批判するナーガールジュナの論理が詳細に解説されています。 ナーガールジュナは、主語と述語の循環的関係を批判し、「不同不異」の関係を提示することで、西洋的な排中律を超えた思考体系を構築したと清水氏は主張しています。
さらに、道元の思想が、ナーガールジュナの論理を自然や環境世界へと拡張したものとして位置づけられています。「現成公案」や「山水経」といった道元の概念が、ナーガールジュナの「一異門破」や「相依性」といった概念と深く関連していることが示されています。 清水氏は、道元の思想を、現代の人類学における「多自然論」や「パースペクティヴィズム」と関連づけて解釈しています。
最後に、清水氏は自身の哲学的関心が、世界を表現すること、そして「モア・ザン・ヒューマン」な自由の探求にあることを述べています。 これは、道元の思想と共通する点であり、西洋近代思想の限界を超えた新たな哲学的展望を示唆しています。
この構造を意識して再読。
…これは「モードレス」の話ですね。 予想はしてたけど。
be動詞に「〜がある」と「〜である」の2つの用法があり、それが認識の混乱を生み出してきた。 「〜がある」は存在論で、「〜である」は本質論を示している。
お釈迦様もインド=ヨーロッパ語族なので、この言語体系に属している。 そこに迷いがあったのかもしれない。 「私がある」を考えるとモードレスというか、環世界というシステムの中で一時的に成立する「私」を指している。
それに対して「私は〜である」だとモーダルになってしまい、環世界から切り離された「不変な存在」を想定してしまう。 この「不変な存在」に固執すると、流動している環世界との間に齟齬が生じ「苦しみ」を生み出す。
そこが「無明」ということかな。
中動態?
まあ、そんな道筋で読めそうに気がして、さてそれは「中動態」だろうか。 なんか関係ありそうに思ったのでCopilotに尋ねてみました。
これらは中動態と関係ありそうですか。推測してください。
はい、推測するに、「である」と「がある」、そしてそれらに対するナーガールジュナや道元の批判は、文法的な中動態と関連している可能性が高いと考えられます。
中動態は、主語が行為の主体でありながら、同時に行為の結果も受けるという、能動態と受動態の中間的な態です。 「ある」という存在は、能動的に存在しているようにも、受動的に存在させられているようにも見える曖昧な状態です。 ナーガールジュナが批判する「主語化」は、この曖昧な「ある」状態を、能動的な「である」状態に強引に固定しようとする試みと解釈できます。 つまり、中動態的な曖昧さを無視し、能動態的な見方(主語化)に偏ることで、事象間の複雑な相互関係を見失ってしまうというわけです。
道元の思想においても、自然や環境世界は、能動的にも受動的にも捉えられる曖昧な存在です。「山も歩く」という表現は、まさにこの中動態的な捉え方を示唆していると言えるでしょう。 主体と客体の区別が曖昧になり、相互に影響し合う関係性が強調されている点も、中動態的な視点と合致します。
したがって、「である」と「がある」の対比は、能動態と受動態、そしてそれらの中間である中動態という文法的な枠組みを通して、より深く理解できる可能性があります。 ただし、これはあくまで推測であり、断定的な結論ではありません。 より詳細な分析が必要となるでしょう。
テトラレンマの「Aでもなく、非Aでもなく」は、「である」を超克して「がある」だけを見て取るロジック。 というか「時間」が入っているからですね。
薪が燃えて灰になる。 本質論で考えてしまうと「薪のイデアはそこにあるのか、ないのか」という議論になってしまうけど、まったく無意味。 ただ、あるときは薪があり、あるときは灰があるだけ。 「薪でもあり、灰でもある」。
「薪が燃えて灰になる」という因果関係がありそうに見えるけど、それは人間が時間の世界に住んでいるからで、四次元の存在なら同じ事態を別様に見るだろう。 「薪でもなく、灰でもなく」と。 前後際断せり。
もしかして「がある」は「にある」なのかな。 存在論だから「〜が〜にある」ですね。 これは「〜が〜である」とは違う。 そりゃ、違う。 日本語では「〜にある」が「〜になる」に訛るのかもしれない。
自分が含まれるシステムを外部から観測する。 お釈迦様が体験したのはそういうことではないか。 フィールドワークの「参与観察」を世界全体に広げたような、 クラインの壺みたいな構造になっている。 それが中動態の定義そのものだし。
まとめ
そういう話かなあ、と思うけど、清水先生はそうは言ってないですね。 時間をパースペクティブに見るということかなあ。 うーん、やっぱり本を読まないといけないか。