Jazzと読書の日々

iPadを筆記具として使う方法を模索します

『身体と魂の思想史』の読み始め

いま読み始めてるのはこれ。

歌は身体を救うか

例によって「はじめに」に次の一文があったから買いました。

緘黙が治るのに役立ったと思われるものを敢えてひとつあげるとすれば「歌」ではないかと思う。

大学に入って一人暮らしを始めた著者が、何を血迷ったか毎日一時間坐禅を始め、自分自身を客観的に見つめるようになったら緘黙になってしまった。 人といる場で言葉が出なくなったそうです。

坐禅なんてするからですね。 あれは理屈でやることじゃないですよ。 「自分を外から眺めているような感覚が出てきた」とあるから離人症を起こしていたのでしょう。 若気の至りというヤツです。

その回復過程に「歌」があった。 これは面白い。 大澤先生の生成AI論を読んで「記号接地に歌が関連しているのではないか」と考えているところなので、ドンピシャです。 何者かが「読め」と言ってるのでしょう。 この流れに乗るしかない。

フロイト

と、読み始めたはいいけど、どうも挫折しそうです。

目次を見た感じは、身体を「大いなる理性」と呼んだニーチェを取り上げ、それからフロイトの身体論をおさらいし、メルロ=ポンティの身体的現象学を再評価し、人工知能論における「身体」を点検しようという流れのようです。 どれも興味深いし、どうまとめるのか気になる。 いったい、どこにたどり着くのだろう?

そこまでは良かったんですが、フロイトあたりで難破しています。

フロイトニューロン研究にたずさわった若手なのは知ってるし、当時はブローカやウェルニッケが現れ、心を脳の部位に還元する研究が行われていたのも理解しています。 今の「唯脳論」のハシリですね。

その神経医学の最先端において、どうも神経の機能不全では説明できない現象がある。 そこでフロイトがつまずき、「言葉」の世界に関心を移す中で生まれたのが精神分析です。 だからフロイト失語症論から始まりヒステリー研究へと歩みを進めた。

田中先生の、この視点には「なるほど」と思いました。

ところがそのあと、田中先生は精神分析を脳の機能として説明し始める。 現代の脳神経学の知見を動員して「フロイトには、こうした脳の働きがわかっていたに違いない」みたいな話の持って行き方をするんだけど、それってフロイトが非難した立場じゃないですか。 「唯脳論」に逆戻りしている。

矛盾しませんか。 それだとフロイトが「他者がそこにいること」を分析の要件とした意味が無になります。 「脳」という頭蓋骨の中の話に収まってしまう。 治療するとしたら「脳」に働きかけるしかなくなり、ライヒみたいな「オルゴンボックス」を出すしかなくなる。 物理的な介入でしか打つ手がない。

うーん、そうなのかなあ。

このあとメルロが出てくるから、そこで「身体=他者」という論が展開するのかもしれません。 「身体」が単に「脳」に還元されるものではなく、他者との交流の場として側面がある。 そう持っていくために、フロイト捨て駒に使っているのだろうか。

まあ、論を際立たせるために、それぞれの思想を単純な図式に落とし込んでいる可能性はありますね。 即断はいけない。 そこまで読んでみないと、これはどう評価すべきか見えてきません。

まとめ

ここまで書いてみて「何が書いてあるかは読まないとわからない」ということになりました。 当たり前だけど。 じゃあ、読むか。

azooKeyの今

mac版はここまで来たらしい。 LLM内蔵。