Jazzと読書の日々

iPadを筆記具として使う方法を模索します

ブラタモリに南院代が出てた

見逃したー。

ブラタモリ

お月さまを見ていたら時間を忘れてました。今日は「恐山」だった。恐山と言えば、当代随一のお坊さん、南禅師がおられるところです。恐山なのに曹洞宗曹洞宗なのに哲学者。面白くないわけがない。困ったお人だ。

南直哉禅師

こんな方です。悟りを開くのが禅宗の目的ではありません。そういうのはどうでもいいことです。スピリチュアルでもありません。なぜ生きて、なぜ死ぬのか。それを自分の人生でもって答える。それが宗教の根っこのところです。

超越と実存 「無常」をめぐる仏教史
南直哉
内容紹介私とは何か。死とは何か。仏教とは何か――。全身全霊の問いから始まった仏教探求の旅。ブッダから道元までの思想的変遷を読み解く、仏教史の哲学。「諸行無常(=すべての〝実存〟は無常である」。そうブッダが説き始まった仏教は、インドから中国、そして日本へと伝わる過程で、「仏性」「唯識」「浄土」などの「超越的理念」と結びつき、大きく変化していった――。「私がねらうのは、ゴータマ・ブッダに淵源する、私が最もユニークだと思う考え方が、その後の言説においてどのように扱われ、意味づけられ、あるいは変質したかを見通すことである。(中略)無常という言葉の衝撃から道元禅師の『正法眼蔵』に出会い、果てに出家した自分の思想的遍歴を総括しようとするものである」(序章「問いの在りか」より)「恐山の禅僧」が、ブッダから道元までの思想的変遷を「超越と実存の関係」から読み解く、かつてない仏教史の哲学。【目次より】プロローグ――私の問題序章 問いの在りか第一部 インド――無常の実存、超越の浸透第一章 ゴータマ・ブッダ第二章 アビダルマ、般若経典華厳経典の思想第三章 法華経、浄土経典、密教経典の思想第四章 竜樹と無着・世親の思想第二部 中国――超越論思想としての中国仏教第五章 中国仏教、智顗と法蔵の思想第六章 中国浄土教と禅の思想第三部 日本――「ありのまま」から「観無常」へ第七章 空海以前と空海の思想第八章 天台本覚思想と法然の革命第九章 親鸞道元の挑戦エピローグ――私の無常内容(「BOOK」データベースより)私とは何か。死とは何か。仏教とは―。全身全霊の問いから始まった仏教探求の旅。ブッダから道元まで、その思想的変遷を「恐山の禅僧」が読み解く、仏教史の哲学。著者について南直哉(みなみ・じきさい)禅僧。青森県恐山菩提寺院代(住職代理)、福井県霊泉寺住職。1958年長野県生まれ。84年、出家得度。曹洞宗永平寺で約20年修行生活をおくり、2005年より恐山へ。著書に『語る禅僧』(ちくま文庫)、『日常生活のなかの禅』「正法眼蔵」を読む』(以上、講談社選書メチエ)、『老師と少年』『『なぜこんなに生きにくいのか』(以上、新潮文庫)、『恐山 死者のいる場所』(新潮新書)、『善の根拠』(講談社現代新書)、『禅僧が教える心がラクになる生き方』(アスコム)など。著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)南/直哉禅僧。青森県恐山菩提寺院代(住職代理)、福井県霊泉寺住職。1958年長野県生まれ。84年、出家得度。曹洞宗永平寺で約二十年修行生活をおくり、2005年より恐山へ。著書も多数ある(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

一般向けの本は好きじゃないけど、この本は好き。如来蔵から距離を置いている。

「イヌにも仏性はあるのか」と弟子に問われて趙州禅師が「無」と答える。よくある「有無を超えた無」などではなく、文字通り「無い」と答えたのだろう。質問した側もイヌの話をしているのではない。「この私でも仏になれますか」と間接的に尋ねている。修行して悟りを開けるかどうか。こんな私に才能があるのか、と。

趙州の答えは「仏性など無い。無ければ修行をやめるのかい」と問い質している。だから厳しいし、やさしい。あっても無くても、修行するしかないじゃないか。別の道を生きようとしても苦しいだけだろう。だったら最後まで付き合うよ。