Jazzと読書の日々

iPadを筆記具として使う方法を模索します

言葉の奥底にある「ことば」

生き物は「ことば」とともに暮らしている。

つながりのことば学

感応性難聴の著者が「コミュニケーション」と呼ばれる現象に肉薄します。

感応性難聴は伝音性とは違い、補聴器で音を拾い集めても聞き取りにくい。 聴神経の問題で音が歪んでしまうからです。 でもそれは「障害」なのだろうか。

たしかに健聴者の生活に合わせようとし、また合わせるように強いられた頃は 「障害」なのだと思う。 教師に叱られ、友人とも齟齬が生じてしまう。 そのたびに自分の努力を足りなく思い、情けなさを感じる。 たしかに「障害」と呼ばれる事態でしょう。

それが聾学校で手話と出会い、職業として写真家の道に進むことで、 難聴であることは「個性」となります。 他の人とは別の角度からこの世界を見る「視点」となる。 何より聾学校で将来の伴侶と巡り会えたのが良かったろうな。 「言葉」と向き合う勇気をもらえただろうから。

ことばの共有地

齋藤さんの「視点」をお借りすると、 人々が普段交わしている「言葉」にはもう一段下のレベルにレイヤーがあって、 それが「言葉」のやり取りを支えている。 その土台のほうを「ことば」と呼んでいます。 「言葉」の奥底に「ことば」がある。

これは「言葉」が聞き取れないことで生まれる利点だと思う。 「言葉」が聞き取れてしまうと「ことば」を聞き落としてしまう。 個人的には、この「ことば」を「声」と呼びたい。 話者の身体全体が「声」に変換され、それが聞き手の身体にも感染し共鳴する。 そうした場が「ことばの共有地」と呼ばれています。

「声」は「超え」である。 個々の身体には閉じない。 匂いのように漏れ出て場に充満する。 話者の感じた恐怖は聴者も震い上がらせ、 話者の喜びは聴者の顔をほころばせる。 それは「言葉」以前のところで伝わっている。 身体の共振現象なのだろう。

齋藤さんはこの微妙で繊細な「声」のありようを 「言葉」に置き換え描写しています。 これはありがたいなあ。 「ノンバーバル」でもありませんね。 ノンバーバルな「手話」というコミュニケーションでも、 その底に「声」がある。 「声」を拾い上げてそれぞれが「言葉」を紡ぎ出している。 音楽のジャムセッションのようです。

書き言葉も「声」だろうか

翻って、ネット上で交わされる「書き言葉」はどうなのだろう。 これもまた「声」なのだろうか。

たぶん一般的には、デジタル化されるといろいろ 「ノンバーバルなもの」は抜け落ちると考えられているでしょう。 手書きの個性的な味わいとか、お喋りの音声的な強弱とか消えてしまう。 規格化されたフォントでは伝わらないものもある。 だからオジサンは絵文字を使いたがる。 それがある意味「常識的」な見解だろうと思います。

本当にそうか。

これは演奏を楽譜に落とすような感じですよね。 たしかに抜け落ちるものもあるけど、 でも書きながら、あるいは言い換えたり書き足したりしながら、 そこに自分の身体性を込めようとしている。 文字にもまた「声」が宿るように書くことはできる。

Twitter上の言葉であっても 「この人らしい」というフレーズに出会うことがあります。 それはコピペであっても「そう切り取るのか」という匂いがある。 デジタル化して失われるなら、 芭蕉の俳句を活字で読んでも何も伝わらないことになるでしょう。 どんな短かなテキストにも「声」は宿り、 詠み手の身体の振動性を伝播してくる。

身体は漏れたがっている。 自我境界を乗り越え、場に満ちようとする。 それは水棲生物であった頃の名残りかもしれない。 水中にフェロモンを撒き散らし、他者とコミュニケートする。 それは匂いであるような味であるような、原始的な場の生成です。 聴覚も視覚もその延長にある。 そして言葉にも「意味」という味がある。

インターネットという海でも事情は変わりません。 身体を海に溶かし込むことがコミュケーション。 まるで死体が微生物に分解され輪郭をなくすように。

とすると「言葉」はタナトスに駆動されているということかな。 溶けるたびに別の身体が生まれるプロセスではあるけれど。

まとめ

今日も変な言葉を漏らしてしまった。