いま読み始めている本。
異界の歩き方
村澤兄弟のコラボ本。
お兄さんが臨床心理士で、弟が社会思想史なのかな。 それぞれが自分の知見を持ち寄って「誰もがすぐそばに異界を抱えてるものですよ」という話をしている。 精神障害は身近にあり、それを避けるよりは、そこを通り抜けた先に希望を見ること。
生きることと、死なないこと、ただ生かされることとは違うのだ。
べてるの家の当事者研究の話から、レインやガタリ、中井久夫を参照しながら、その考察を深めていくのですが、なるほどなあ、何か「若い」なあ。
読みながら「若い」となぜ感じてしまうのか考えてみたら、「反精神医学」に毒気がないからですね。 「過去の遺物」みたいな扱いになって、現代からは縁遠いことと思われている。 社会基盤を揺るがす爆弾だと気づいてない。
ラ・ボルド病院
それはラカンの解説本を読んでいても感じる。
リアルタイムな世代だと「ラカン」という名詞は「反精神医学」を連想させるのだけれど、「若い人たち」にはそうした側面が欠落している。 それだと彼が何と闘って、あんな面倒くさい理論を組み上げたか分かりにくいでしょう。
フランス語の「主体 sujet」という言葉はそのまま「患者」を意味します。 原義的には「su-jet 下へ投げ込まれた」なので「ある状況下にある人」を指す。 事あるごとにラカンは「治療の主体は患者自身である」と念押ししています。
治療者側が主体なのではない。 治療者の都合に合わさせることは患者に「他者の欲望」を押しつけることになる。 「他者の眼差しや声」に苛まれている患者にとって、それは二重の苦痛になる。 というか、妄想や幻聴はそうした「社会の要請」を感覚的に表現したものなんだろう。 監視され命令される世界。 人の世界はそういう世界。
ラカンの理論は、ジャン・ウリのラ・ボルド病院として結晶する。
精神的に疎外された人たちを社会的に疎外してはいけない。
病院の経営は患者たちに託されています。 何を食べるか自分たちで決め、自分たちで調理する。 どこに行くかも自分たちで決め、自分たちで旅行する。 休みたい人は休めばいいし、何か作りたい人は作ればいい。 不都合が起こればみんなで話し合う。 それは緩く繋がる共同体になっている。
ガタリはその病院の職員でした。
自分は正常だと思っているけれども、それは果たしてどういう正常なんですか
写真家の田村さんも病院で寝泊まりしながら、そう考えてしまう。 街に帰れば、街もまた一つの「施設」である。 ラ・ボルドよりも息苦しい、管理の行き届いた施設。
人は集まり生き抜くために、自然から切り離された人工の環境を作り上げた。 それはそれで仕方ないけれど不自然なこと。 その不自然さは「狂気」を育み、それを投影する対象、スケープゴートを探す。 スケープゴートにされた人たちは病院に隔離される。
まとめ
反精神医学は「普通の人たち」に「自分の中の狂気を見よ」と促した。 たぶんに第二次大戦への反省があってのことだろう。 ホロコーストは「普通の人たち」によって為されたのだから。 「狂気」を投影し、隔離し、抹消した。
そして現代。 ウクライナやガザで「ホロコースト」が再燃している。 それを解くカギが「反精神医学」にあるだろうか。 この本を読んでいく先にあるといいなあ。
とか、村澤兄弟に期待するのはちょっと違うか。 まず自分を振り返らなきゃ。