Jazzと読書の日々

iPadを筆記具として使う方法を模索します

あなたの「先生」は誰でしょうか

「書くこと」には読者がいる。

私の先生

そして、読者とは「先生」である。

大澤先生の「先生」は見田宗介でしょ? 誰もが知ってますよ。 あんなに惚れ込んでるんだから、聞かなくてもわかります。

でもこの本は見田先生に限りません。 中井久夫吉本隆明親鸞織田信長ハンナ・アーレントヴァルター・ベンヤミンなどなど、15人ほどの名前が挙がっています。 おやおや、センセ、それ、会ったことないでしょ?

どうも本を読んだだけでも良いようです。 感銘を受けたら「先生」。 これはお手軽。

でもこの先生たちはどの先生も「答え」を教えません。 「答え」を教えるのは「先生」の仕事じゃないからです。 「問題意識」を与えてくれる。 ついつい見逃してしまう日常に風穴を開けて「これは何だ?」と突きつける。 それが「先生」だからです。

見田宗介

とはいえ、見田先生だけで第1部を占めてます。 それだけ影響力が大きい。 そしてこれほど丁寧に「見田社会学の入門」になっている論文も見たことありません。

見田先生はまず『まなざし地獄』からですね。 北海道から出てきた若者の生涯を、統計学的なデータで分析しつつ描き出す。 個人を社会学で記述する野心作です。

網走から東京にやってきた青年が「犯罪者の子どもじゃないか」という偏見に晒されながら、それを否定しようともがき苦しみ、やがて日本から脱出しようと決意したところで事件に巻き込まれ、警官を殺害してしまう。 「犯罪者」のレッテルから逃れようとして「犯罪者」となってしまう。 でもそこには、そうなるように仕組まれた社会装置がある、という解釈です。

それだけでも「社会学」のイメージを壊す大作なのに、さらに見田先生は『気流の鳴る音』を出す。 社会学を超えるために「真木悠介」というペンネームを使い、ネイティブ・アメリカンの精神世界を題材にします。

カスタネイダの著書をもとに、シャーマンであるドン・ファンの教えを分析しているのですが、これが明快な構造主義的分析になっています。 ほかのカスタネイダの解説書も読んだことありますが、こういう分析はされてないですね。 ただの神秘主義扱いです。 なので見田先生だから見えていた「世界」なのでしょう。

ただ構造としては、井筒俊彦イスラム神秘主義を分析したのと同型に見えるかな。 スーフィズムの「ファナーとバクァー」に当たるのが、ドン・ファンの「ナワールとトナール」になっています。 たぶん日本人に馴染みのある構造だからでしょう。 大澤先生も「色即是空と空即是色」に言い換えてるし。

ゲシュタルトの「地と図」に当てはめるとわかりやすい。 日常で私たちは「図」を見て暮らしています。 「図」のほうが目立つし、そこに注目することが役に立つから。

でも「図」が成立するのは、それを支える「地」があるからです。 それでシャーマンたちは「図」への注意を保留し、「地」に焦点を当てるトレーニングを積んでいく。 するとそこには、エネルギーが流転する、形のない世界がある。 それが「ナワール」。

その後の世界

でも「ナワール」を見て終わり、ではありません。 見田先生の着眼点は「その後の世界」を読み取っているところです。 「悟り」が目的ではありません。 ただの通過点。 世界の真理を見たあと「日常」に戻ってこないといけない。 それが「トナール」。

大澤先生が挙げている「先生たち」はどの人もこの「その後の世界」を見ている。 そこを「問い」にして学問をしている。

たとえば中井先生は「統合失調症の後の世界」を見ています。 発症後、どういうふうに寛解し、また「日常」へと戻っていくのか。 ある意味「治る病気」であるのに、それまでの精神医学は「寛解」に関心を持ってなかった。

ドゥルーズ=ガタリが対照に挙げられてますが、統合失調症は人格が解体していくプロセスだとされ、そのプロセスを逆張りして「ヒーロー化」してきた。 近代の人間観を揺るがすための装置として使われた。 患者さんが「その後」をどう生きていくか無関心だったわけです。

でも中井先生は違う。 患者さんはたしかに「それまで通り」にはならないかもしれないけど、この世に棲む力を持っている。 人格が崩壊するわけではありません。 情緒豊かで繊細な「心の産毛」を残したまま生きていく。 そのプロセスを大切にしています。

そうした「その後の世界」の話がどの「先生」にも出てきます。 これが大澤先生の問題意識ですね。

資本主義のその後

先生自身は「生成AIの後の世界」に関心があるようで、それは「資本主義の終わり」を意味します。 生成AIが資本主義の仕事を奪ってしまう、ということではありません。 そうではなく、生成AIが消費者の無償労働に基盤を置いている、ということです。

生成AIはインターネットのビッグデータをもとに学習しています。 そのビッグデータとは、こうしてブログに記事を書いたり、Amazonで買い物したり、Googleで検索したりする「消費者の行動」の集まりです。 消費者はデータを提供し、そのデータをもとに生成AIが知識を構築する。

すると消費者は、自分たちが無償で作ったものを有償で買い戻しているわけです。 これが今までの「資本主義」になかった要素で、それが「その後の世界」を変質させるだろう。 でも、それはどんなふうに?

これはすぐに答え合わせできることではありません。 マズい事態が起こりそうなら、その対処もするだろうから、直線的には予測できない。 でも無自覚なままだと、気がついたときには後戻りできなくなっているでしょう。 というか、こういうプロセスは後戻りできなくて当然で、しかも正しい選択が何かは誰にもわかりません。

それでも「問い」を持ち続けること。 これはハンス・ヨナスの「未来への責任」と同じだと思いました。 誰にもわからないけど、でも「今を生きる者」として責任がある。

まとめ

それには「先生」を持つことだろうなあ。 自分の考えることや書くことをチェックしてくれる読者として、「世間」ではなく、「先生」を心の中に作ること。

実際にそうした「先生」と出会えることは至福だし、もし出会いがなくても「そんな問いがあったとは!」と驚くような本を読むことかな。