Jazzと読書の日々

iPadを筆記具として使う方法を模索します

「精神分析と無」を読んで

「似てる、似てる」とはしゃいでいるだけに見える。

精神分析と無

精神分析と無 ビオンと禅の交差

ルディ・ヴェルモート、松木邦裕、西見奈子、西平直、清野百合

松木先生とヴェルモート先生が交互に講演し、それを西平先生が丸くまとめる話。

テーマとしては分析家のビオンを中心に「後期ビオンに現れる「O(Origin)」という概念が禅仏教で言うところの「無」ではないか」ということなんだけど、いや、何を言ってるんだろうなあ。

どうも松木先生は「禅」を知らないんじゃないかと思われる。 ビオンの「記憶もなく欲望もなく」を「無心のことだ」と騒いでるけど、禅師たちは「無心」を目指したわけでもなかろう。 そもそも仏教はウパニシャッド哲学の否定なんだけどなあ。

ヴェルモート先生は、さすが昔からこのテーマを深めていただけあって考察が深い。 ただ井筒俊彦寄りというか、ありがちな真如論になってるなあ。 無分節の段階を「O」と考え、一度その段階に触れてから再び分節の世界に戻ってくる。 「真如=タオ=O」という理解で、そこは言語では捉えられない。 ラカン現実界と同じ。

このお二人には「言葉=意識」という図式が透けて見えるけど、本当にそうだろうか。

禅については、追加論文にある清野先生の視点が重要でしょうね。 「O」は「考える人を持たない考え」の領域で、むしろそここそが「言葉の世界」である。 「言葉」が世界に充満していて、自分に形を与えてくれる人を探して漂っている。

それがたまたま「私」の心に宿ったり「あなた」の口から出てきたりする。 それが禅で言う「無情説法」であり「道得」です。

後期ビオンの即興的な、ジャズのインプロヴィゼーションに近い物言いは「道得」として見るのが合うんじゃないかな。 あれってとても無責任で、楽しんで喋っているもの。

Copilot

それだけだとなんなので、CopilotにKindleハイライトを要約してもらいました。

このノートは、精神分析、特にビオンの思想と禅における「無」の概念の共通点を考察しています。ビオンの精神分析論、特に「O」という概念と、禅の「無心」の概念の類似性、そして精神分析における「無」の役割について探求しています。 フロイト、クライン、ラカンエックハルト井筒俊彦など、様々な思想家の関連する概念も参照しながら、精神分析における「無」の重要性、そしてそれがもたらす変容の可能性について論じています。 特に、分析家が無の状態になることによって、患者の深層心理に触れ、真の変容を促すことができると主張しています。

見事な要約だ。 やっぱり生成AIには感心してしまいます。 言霊が宿ってる。

精神分析と限定してますけど、これって普通の会話でも起こることです。 「むしろ初心者の分析家ほど、このOに触れているのではないか」という議論もありましたが、いえいえ、誰でもいつでも「無」に触れているのです。

これは文章を書く人間にしたら「当たり前」でしょう。 いわゆる「言葉が湧いてきた」とか「言葉が降ってくる」とかいう現象のことです。 自分で書いているわけではない。 まずアイデアが「どこか」からやってきて、それを書き留める。 その「どこか」は「どこ」と名指すことができないので「無」と呼ぶだけのことです。

面接でこれと同じ現象が起こるだろうというのは想像できます。 また、それが契機となって、閉塞していた状況を打開するのも理解できます。

だから、禅の話とはいえ、患者さんが「悟り」を開く必要はない。 ええ、まったくありません。 「最近眠れてないんです」と相談に行って「悟りを開かねば眠ることはできません」と言われたら、もう帰っていいと思いますよ。 時間の無駄だから。

ただ「状況が変わる」という僥倖が起こるには「アイデアが降りてくる」という事態が関与している。 それは確か。 精神分析でなくても「普通の相談」でもこの「僥倖」はあるでしょう。 アリストテレスが「テュケー」と呼んだ「偶然の出会い」がある。

悟りについて

でも「分析家も悟らなくていい」というヴェルモート先生の立場はわかりません。 もし禅の修行をしている若僧が口にしたら足蹴にされます。

先生の理論にも「無との接触を受け止める修練」が含まれていて、それを推奨しているように思うんですけどね。 ビオンの言うように「理解もなく欲望もなく」心を空っぽにして「無」が訪れるのを待つ態度。

相談に行く側からすると、そうした「修練」を積んだ人であってほしい。 こちらを決めつけないというか、何かの「分類」に放り込んで安心するような治療者には会いたくない。 人格者でなくていいけど、誠実ではあってほしい。

物書きには「どういうマインドセットであるとアイデアが降りてきやすくなるか」と同等ですね。 たぶん「どういうマインドセットだと」と考えたところでアウトです。 マインドセットで心が埋まってしまう。 「空っぽ」にしておくことがポイントなんだから、むしろマインドレスでなければなりません。 あるいはオープンマインドか。

すると「婆子焼庵」の公案が少し理解できます。 若い禅僧を推しにしていた婆さんが、その禅僧がどれくらい修行が積めたか調べるために、自分の孫娘を草庵に向かわせハニートラップを仕掛ける。 色仕掛けにどんな反応を示すか試したというエピソードです。

禅僧は坐禅を組み「心動かされることはありませんでした」と答えるんだけど、お婆さん的にはこれは失格。 まったくわかってない。 「ダメな奴に推し活してしまった」とその禅僧を追い出してしまいます。

なぜダメか。 だってそれは「悟り」じゃないから。 患者さんから「先生のことが大好きです」と言われて「心動かされませんでした」と答える分析家を考えてみ? そいつは自分の安心しか考えてないでしょう。 「安心」で心がすでに詰まっている。 そんなのが「悟り」なわけがない。 衆生無辺誓願度。

じゃあ、その場でどう答えればよかったのか。 答えじゃないですね、問いです。 患者さんと自分がいて、その患者さんから告白されたら、ほんとドキドキする。 どう答えるのが相手のためになり自分のためになるだろう、そう悩む。 そういう問いを抱えたまま、相手との対話を続けようとする。

そういう収まりつかないところから逃げないのが「悟り」でしょう。 良いも悪いも「空っぽ」にして、その場にい続ける。 ビオンの言うネガティブ・ケイパビリティ

だからヴェルモート先生の「悟りはなくていい」はおかしな話です。 たぶん、全然悟れてないのに分析家を名乗る人たちも多くて、恥をかかさないように空気を読んだのかしら。 そんな日本人っぽいこと、しなくていいのに。

まとめ

もちろん、分析家の目標が「自分が悟ること」になっても変ですし。

追記

そうか、書いてある原稿を読んでいる時点で「無を実践してないなあ」と感じて、それが違和感になっていたのか。 言葉が即興で出てきていたら、また違う話になったかもしれないのに。 なんかもったいない。