Jazzと読書の日々

iPadを筆記具として使う方法を模索します

Markdownの改行は相槌なのだと思う

自分と対話しながら書く。

音声概要が面白くて

何がいいのかなあ、と思って何度か聞き直すと 「フィラー」でしょうね。 「ええ」とか「あー」とか繋ぎ言葉が使われています。 対話形式なので、こうした相槌を多用しても違和感が生じない。

フィラーが入ると、 その対話を聞いている聴衆もいっしょに頷いてしまいます。 聞き手に同調している。 とともに、その瞬間自分の中で理解の確認をしています。 ここまでの話はどんなことだったか、と振り返っている。 休止符が挟まるわけです。

通常「書き言葉」でフィラーは使われません。 そこが「話し言葉」と大きく違う。 違うけれど、似たような工夫はあります。 それが「改行」ではないかと思いました。

読むときの改行

読むときの改行は少し立ち止まって 「ここまでついてこれてますか」と呼びかける感じですね。 読者に対して「私はこう思うのですが、どうでしょう?」みたいな。 ちょっと返事を待ってみる。

だから改行無しに文章が長々と繋がっていると、 作者が読者を無視して独り言をつぶやいているような、 読者としては取り残された寂しさを感じます。 置き去りにされた。 おいおい、ちょっと待ってくれよ。 そう言いたくなる。

反対に改行が多いと、 一つ一つ確認されている印象がします。 いい意味では親しげというか、距離感が近い。 踏み込みすぎて圧迫感になるときもある。 「深いニュアンスも読み取ってよ」と迫られ、 油断できない感じになる。 それでポエムでは改行を多用するのでしょう。 読者に参加を求めている。

もともと古典とかは改行しないものかもしれない。 お経とかびっしり文字が詰まってるものなあ。 たぶん紙とかパピルスとか、素材が高価なもので、 余白を開けると枚数が増えてしまうので、 隙間なく書くようにしたのかもしれない。

新聞とかも改行が少なめですね。 一面での情報量を増やそうと考えたら、 改行を慎んで文章を詰め込む感じなのでしょう。

ただ情報を伝えることが第一義ではない場合。 手紙をしたため、相手への気遣いを示す書き方では、 改行が「心遣い」として用いられる。 「あなたのためなら紙代とか気にしませんよ」といった感じかな。

改行無しに和歌とか詠んでも恋心は届かない。 ケチくさく感じます。

書くときの改行

改行の基本は「読むときの改行」しかなかった。 書くことは、そのまま読むテキストになるから、 そこに分裂はありませんでした。

でもMarkdownに馴染むと「書くときの改行」が生じる。 これは新しい事態です。 表示すると、空行までの改行は無視される。 そういう書字習慣は今までありませんでした。 実際、覚え始めの頃は違和感があった。 なぜ書いたままじゃないんだ?って。

ただ慣れてみると、この書き方は自然に思えます。 一行書いて、あるいは一文書いて、立ち止まる。 自分自身に「これでいいか」と確認する。 自分の身体に問いかける感じで、 それがスッと腹落ちするかしないかを確かめている。

身体との対話。 もやもやと沸き上がってくるものに耳を傾け、 言葉として捕らえる。 身体と頭が言葉のやり取りをする。 その軌跡がテキストとして蓄積します。

意識はキャッチャーです。 言葉を受け取るたび「へぇー」「あー」と相槌を打つ。 それが「改行」として表現される。 それがMarkdownの書き方です。 たまに「ほんと?」「そうかなあ」と疑義を挟む。 それもまた「改行」の姿になります。

この「書くときの改行」はパーソナルなことなので、 読み手に示す必要はありません。 だから表示するときは消えてもいい。 でも推敲するときには、 もう一度身体と対話するための入口となる。 「改行」として「ここから入れ」と明示される。

一行ずつ身体に落として「音」が響くか耳を済ませる。 推敲自体、 「推す」にするか「敲く」にするか口ずさみ、 その「音」を身体に響かせる詩人のエピソードですよね。

決め手となったのは何なのだろう? やっぱり「音」だろうなあ。

まとめ

Markdownは新しい「改行」を生み出した。 フォーカシングっぽいなあと思ったのですが、 どうなのでしょう?