Jazzと読書の日々

iPadを筆記具として使う方法を模索します

存在論的責任って要するに何?

このエピソード、いいなあ。

島の人

伊藤亜紗先生が挙げている「島の人は約束をしない」というエピソード。

八丈島のイベントに呼ばれ、空港に着いたら主催者の人が迎えに来ていた。 会場の学校についたら、バナナの葉っぱで飾り付けがされていた。 「それぞれ担当の人がいて、その人が取り仕切ってるのだろう」と思ったら、ただ「気づいた人が自分の好きなように動いているだけだった」という話です。 「田舎あるある」かもしれない。

伊藤先生は「彼らの中には、何十人分ものタイムラインが走っているのだろう」と感動してますが、たぶんちょっと違います。 ほかの人がどんな動きをしているか、そんなに意識してないと思います。 「ただ、そうした方がいいかなと思っただけ」でやってて、それが自然と「仕事の分担」になっている。 それだけ。

コミュニティ内のコミュニケーションが流動的だと、まるでその集団が「一つの有機体」であるかのように機能する。 田舎の人はそれに身体が馴染んでいます。

この感じが「無責任の極意」なんだと思うけど「責任がない」ではないなあ。 「責任の主体がない」という感じ。 上下関係がなくて、誰かが指図しているのではない。 主体的に動いてるのでもなくて「そうしたいから」で動いている。

「自分」はあるんです。 「私、そういうのが好きだから」で飾り付けとかやっちゃうから。 ほかの人はそれを見てその人にお任せして、自分は自分で「できること」をする。 すると全体的には良い案配になる。 約束事があらかじめあるわけではない。

構造がリゾームなんだと思う。 だから、なにか問題が起きて「誰の責任か」と問われると弱い。 「あらあら、それは運が悪かった」で済ますところがある。 でも、そのときそのときで臨機応変に動くので大ごとにはなりません。 小さなリスクを許容することで大きなリスクを回避する。 そんな「有機体」みたいな動き方をします。

たぶん、政治的に重視されなかった「田舎」の特徴じゃないかなあ。 「惣村」の名残りかと思うんですけど、自治のノウハウを持っている。 車座になって「ああでもない、こうでもない」と談義するんですよね。 上意下達にならない。 かならず反対する人が出てきてややこしくなる。 でも「できること」はそれぞれにする。

まあ、面倒くさい面もあるけど、決して悪いわけでもないというか。

ハンス・ヨナス

戸谷先生の本、ハンス・ヨナスのところまで来ました。

戸谷先生の強みはヨナス論が芯になっているところですね。 この責任論は強い。 そして20世紀の哲学が「ナチス・ドイツの再来をどう阻止するか」を中心に回っていたのだと再認しました。 21世紀は「ナチス的なもの」が政治を動かし始めたので、何度も読み直すのが良さそうです。

ヨナスは責任を「誰に責任があるか」ではなく「誰への責任なのか」から問います。 たとえば、駅のホームで泣いている小さな子どもがいたとする。 そうしたら、それを見かけた大人としては「どうしたの?」とその子に尋ねるでしょう。 孟子なら「惻隠の情」と呼ぶ事態です。 そりゃあね、気になってしまう。

「責任の主体」みたいなことを言い出したら「私にこの子を助ける責任はあるのか」って、どうでもいい話になります。 どうもね、今までの道徳論は「責任の主体」を言い過ぎた。 ほんとどうでもいいから、まず助けろ、と。 「困っている、弱い立場の人がそこにいる」というだけで十分。 それだけで「責任」がその場に生まれます。

「場に生まれるものだから、個人が抱え込むことでもない」。 この指摘もごもっともです。 迷子の子どもに声をかけ「大丈夫。一緒にお母さんを探そうね」となだめ、それから駅員に相談すればいい。 ひとりで解決しなくていいし、また、ひとりで解決してはいけない。 仕事を休んで、その子の親を探し回るような自己犠牲は、自分に対して正しくない。 もし1日かけて見つからなかったらどうする?という問題も発生します。

だから「責任」が生じたら、それは「みんなのタスク」です。 病いは市に出せ。

ただ、これを「存在論的責任」と呼んじゃうから、哲学は嫌がられるんだよなあ。 もっといい名称、ないんですかね?

まとめ

この存在論的責任は、伊藤先生の「島の人たち」が自然にやっていることだと思いました。 「今日初めて島に来る先生がいる」。 その先生に合わせて、それぞれができることをする。 「誰への責任か」を共有しているから、無理なくそれに応答できる。

これは「自己責任」とは対照的な考え方。 しかも「当たり前」の責任論です。 だから、日本語にすでにありそうなんだけどなあ。

芋こじ

そういえば二宮尊徳に「芋こじ」があったのを連想しました。

幕末の農村改革で、村人が集まり、それぞれが自分の思いを自由に話す場を作る。 別に問題解決を目指さなくても良い。 ただ思っていることを話して、咎めもせずみんなで聞き流しておくと、村全体の動きが良くなるという方法です。

芋をかき混ぜ泥を落とすことに喩えて「芋こじ」と呼んでた。