次に読み始めてるのがこの本です。
生きることは頼ること
國分先生の『手段からの解放』を読んで「資本主義自体の問題というより、何かが最近になって加わったことで生きづらさが加速したのだろう」と思い、まずは「自己責任」という概念から押さえてみようと思いました。
問題意識としては『スマートな悪』が近そうなので、戸谷先生がその後どんな思想展開しているか見てみたいと思ったのもあります。 効率化を進めた先にあるのは「無駄」の排除ですからね。 「ただ楽しむ」を嫌悪する風潮を生み出しているだろう、と。
自己責任は80年代
まず80年代の中期に文部省から「自己責任論」が出ていたことに驚きました。 しかも「画一的な詰め込み教育」への反省から「個性重視の教育」に転換しないといけない。 そうした文脈で「自己責任」が出てきます。
「自分で自分の未来を切り開く大人になる」という、一見立派な大義名分なんです。 それが「自己責任」と呼ばれ、教育目標に組み込まれた。
これは政治の文脈では「社会保障の縮小化」と関連してそうです。 団塊の世代が教育の場から卒業し、社会人となったあたりで「あれ?日本の人口構造はおかしくない?」と気づかれるようになった。 それまであちらこちらに建てた公立のマンモス校で、入学する子どもの数が急に減り始めた。 いわゆる「少子高齢化」の問題です。
将来的に国民保険や年金などの制度が崩壊する。 それに気づいた大蔵省から「闘病や老後の保障を国に頼るのではなく、自ら投資などの資産運用をし、経済の循環に貢献してください」とお達しが出る。 教育と経済の両面から、それぞれニュアンスが違うものが合体して「自己責任論」が国策として推進される。
なるほどなあ。 バブル期以前からあったのか。 というか、個人投資に移行した結果が「バブル」ですね。 土地の転売に投資して、どんどん地価が上がっていく。 何も生産してないのに見掛けの資産が増大するから「景気がいい」とみんな浮かれていた。 あの馬鹿げた時代がやってくる。
岸田政権が「新しい資本主義」と呼んでいたのは、このバブル以前の「個人投資」のこと。 貯蓄にお金を回すより、株や国債にお金を突っ込んで、自分で「年金」を作ってくれ。 そうすれば安心して「社会保障」の店じまいができるから、と。 何も「新しく」なんかない。 80年代から日本政府が目論んでいたことです。
でも、それを推奨する気持ちもわかるかなあ。 「国を頼りにしてくれるな。ほんと、お金がないんだから」ということだな。 「きっと政治が解決してくれる」と期待できるほど、政治は有能ではない。 もっと政治に不信感を持って「ああ、自分でなんとかしなきゃ」と思ってほしい。 そう願っているから、彼らは政治不信が起こるように努力してるんでしょうね。 それが「新自由主義」かぁ。 早く辞めてほしいけど。
無責任男
それにしても、なぜ80年代に「自己責任」が教育で語られるようになったんだろう。 70年代に「三無主義」と呼ばれたのが関係あるのだろうか。
三無主義というのは「無関心・無責任・無感動」だったかな。 当時の若者の問題点として広く流布していました。 「最近の若者は」のパターンですけど、たぶん、学生運動が衰退したあとに出てきた。 「シラケる」という言葉が流行った頃の話です。
だって学生運動は「関心・責任・感動」の塊じゃないですか。 サルトルのアンガージュマン(なんでも参加せよ)の世界ですよ。 それを思いきっり押さえつけたら、次に出てくるのは「その否定形」になります。 政治に無関心になるし、自分には責任ないし、関わってないから感動もない。 ほんとまあ、どうしろというんだ。
それだとお国としては困るのでしょう。 植木等の「無責任男」がモデルになっては経済が立ち行かない。 そうそう、植木等、よかったですよ。 あれはジャズだった。 チャーリー・パーカーやガレスピーの「ビ・バップ」のファッションを日本風にアレンジしたのが「無責任男」です。 かっこ良かった。
人生は苦境の連続だけど、でもそれを楽しむことはできる。 「無責任」とは、國分先生の「手段からの解放」のことです。 将来どうなるかなんて知ったことじゃない。 何が起こるかなんて、起こってからわかることです。 先に心配しても仕方ない。 そのときゃそのときで、なるようになるさ。
そうだなあ。 これは「中動態」そのものを生きている姿ですね。 「主体」なんかじゃない。 能動的な主体を消していながら、でも「自分」がちゃんとある。 譲れないことは譲らない。 「こだわり」は生きている。 國分先生の本を読んだとき思い浮かべたのが、この「無責任」でした。
でも國分先生も戸谷先生も「責任の世代」だからか「無責任」に行き着けない。 「これは無責任じゃないです」と言い訳してしまう。 言い訳しなくていいのに。
まとめ
あら、「無責任野郎」が1962年か。 70年代だと思ってた。 ごめんなさい。
戸谷先生の本はまだ序盤のところ。 「自己責任」という概念はもともとドイツ語に由来し、ナチスによって推奨された、という話のところを読んでいます。
「自律的であるべし」と命じられると、なぜ人は考えることを放棄してしまうのか。 戸谷先生はその矛盾に直面し、アーレントを出してきたりして右往左往してるけど、そこは単純に考えて「ダブルバインドだから」じゃないかなあ。
「自律的であるべし」に従うと、その瞬間「人に言われて動いた」になってしまう。 従わないと、自律を放棄してしまう。 どっちに動いても「服従」になる。
この状況だからでしょ?