中井久夫
最後の章を加筆しただけなのに値段が倍になるNHK商法。 いえいえ、それだけ読み応えがあります。 中井先生の「微分回路/積分回路」という用語が出てきて 「ほほう」と思いました。 これは応用が捗る。
微分回路とは、わずかな徴候から未来を読み取る直観能力です。 狩猟採集民の時代、人類はこの能力を活用することで生き抜いてきた。 空を見て「嵐が来そうだ」と天候を読んだり、 足跡から「カモシカはまだ遠くに逃げていない」と感じ取ったり。 狩りや漁をするには欠かせない。
積分回路は、過去の経験をデータとして活かす構築能力です。 農耕生活が始まることで知識の重要性が増し、社会をシステム化していった。 計画的に作物を作り、多人数で共同作業するため分業が進み、 やがて共同体の中に身分の違いが生じるようになった。 それは工業社会においても変わりません。
微分回路に長けた人たちも、農耕牧畜の時代においては、 シャーマンや占い師として社会の中で共存していたけれど、 やがて近代化によって彼らの微分能力が「病い」とされたのではないか。 そこに統合失調症の起源を見るのが中井先生の立場です。
これを「気質」と見ているけれど、 読んでいると「気質」より「役割」じゃないかと思う。 誰にでも微分回路と積分回路がある。 ただ積分が重視される時代には、つまりエビデンスに価値が置かれすぎると、 それとのバランスを取るために微分タイプの人たちが生み出される。 「未来」を幻視して語る人が出てくる。 リニアなんて掘ってる場合じゃない。 もうすぐ大規模な地震が来るぞ。 用心せよ、と。
その微分回路の言葉は、聞く人たちの奥に眠る微分回路をも揺さぶり、 ある意味「革命」を生み出す力に変わるのでしょう。 現代ではアーティストの姿を取るかもしれないし、 近所のおじさん・おばさんの姿をしているかもしれない。
ただ、うまく行かないときは「狂気」となってしまう。 積分回路が強すぎる時代だと、息苦しさに押しつぶされることもある。
箇条書きは両面持つ
微分回路は、箇条書きの「あいだ」を考えるときですね。 2つの文のあいだに空行を入れ、 そこに「2つの文」を結ぶ一行を書き入れる。
よく考えればいつもしていることです。 「あいだ」を細かく分割し言葉にする。 石黒先生が「魚の目」と呼んだものを使って、 その「あいだ」に流れる潮流を読み取る。 これが微分回路であり、直観能力の働きです。
その「あいだ」が文章の終わりのときもあります。 次の新しい文にたどり着くために漸近線を延ばしていく。 未知の領域に踏み入り、ただただ筆が進む。 ゾーンが開く。 これもまた微分回路の持つ機能でしょう。
積分回路は反対に、並んでいる箇条書きを集め、 その全体を眺めながら小見出しを付けるときに働きます。 こちらは「鳥の目」を使っている。 文を積み上げることで自分が何を言おうとしているか。 それを読み取るときに積分回路が計算している。
あるいは、そこまでの文章を振り返りまとめるとき。 いわゆる結論文は積分で構成されます。 小見出しから結論文まででブロックを作る。 ブロックとブロックを重ね「論」に仕上げる。 積分は名前のとおり積み上げていく働きです。
よく「ガーデナーvsアーキテクト」という二項対立を見るけど、 そうじゃないんだと思いました。 アイデアを育てていく園芸家と、 アイデアを組み立てる建築家。 メモにこの2つの側面があるのは確かです。 でもどちらも「積分」ではないか。
そのどちらでもない「微分」としてのメモ。 呼ぶとすれば「ハンター」。 狩猟採集民としての書き方です。 アイデアの足跡を見つけ、臭いを嗅ぎ、追い続けるもの。 ネタ帳としてのメモの存在。
なんのことはない、本来の意味でのツェッテルカステン。 Thino、いいですよ。 スマホのObsidianはThinoによるネタ帳になってます。 iPadは、ほら、そのネタをこんなふうに「積分」してるだけ。 それで記事になる。
まとめ
テトラの第3レンマ「Aでもあり、Bでもあり」は積分のことで、 第4レンマ「Aでもなく、Bでもなく」は微分のことかな。 そう見立てると諸々が繋がってきます。