マグショットっていうのか。 初めて知った。 勉強になります。
ミルキー☆サブウェイ
反復視聴しても面白さが減っていかない。
テンポのいいギャグアニメなので、 これは誰も死なないなあ。 一話目でマキナがスクラップになってたけど、 なんとかなるのでしょう。
本体はそこじゃなかったとか、 リモート操作だったとか。 伏線がどこかにないか。 って、ロボットとの合体、最初から張り巡らされてるけどソレ?
深い話かもしれない
ストーリーをマキナ目線で見ると、 これは「桃太郎」じゃないかと思いました。 まず総長がオタ友になって、 それから運び屋さんらも仲間になって。 チームが出来上がって前の車両、問題の核心に迫っていく。 食べもの、渡してたし。
もともと取り調べで婦警さんから 「あなた、人を見下してるでしょ? いざというとき困るわよ」 と言われていたように、 マキナの課題は「自分一人でなんでもできる」 という思い上がりだったのだから。 横のつながりができる。 人に「ありがとう」と言える。 数日で成長していて、おじさん、うれしいわ。
横に広がると、ちょっと縦に進める。 『斜め論』にもそんなことが書いてありました。 考えてみるとそれは『桃太郎』から続くロジックです。
孤独な主人公が他者と出会うことで自分の才能を開花する。 『ぼっち・ざ・ろっく』のとき書いた覚えがあるけど、 どの記事だったかなあ。 見つかりませんでした。 『水星の魔女』のほうだったか。
最近のアニメに多いパターンで、 1クールで話をまとめようとすると 「ぼっち」が主人公にしやすい。 登場人物が少なくて済みますからね。
バディという奇跡
でも原作がある場合は、もう少し複雑になります。 『フリーレン』も『ダンダダン』も、 初めから同行してくれるバディがいる。 ニコイチのところに、新しくメンバーが参加してチームになる。 そうした展開になります。 『ウィッチ・ウォッチ』とか。
『着せ恋』もそうかな。 五条くんを「ぼっちな主人公」と見ると、 その五条くんを導いてくれる海夢ちゃんがいてバランスが取れる。 その二人のラブストーリーに見せながら、 五条くんがクラスの中で水平方向のつながりを広げる話です。 そして五条くんが人として成長していく。 海夢ちゃんはあまり成長しない。 もともと芯が通っている。
昭和なら「友だち集団→親友→恋人」の順に対人関係が発達すると思われていた。 でも今のアニメは「ぼっち→バディ→友だち集団」の順に広がります。 バディが「恋人兼親友」になっている。 いきなり恋人から始まるのも珍しくない。
『思春期センサー』に書いてあったように 「いつメン」は「友だち集団」ではありません。 「いつメン」は「会社の同僚」みたいな関係で 「職場=学校」を問題なくやり過ごすインフラに過ぎない。 そこから「親友」が見つかるわけではありません。
漫画に出てくるバディは、今の子どもたちには「夢の存在」なのでしょう。 バディに出会えることができたら、きっとそこから「友だち」ができる。 横方向に広がるための「媒体」となる関係。 そうしたストーリーを夢見て、心を揺り動かされる。
で、『ミルキー☆サブウェイ』もその定石に載せています。 3分ちょっとの短編だから「よくあるパターン」を使うことで、 視聴者が話についてきやすくしている。 マキナが人とのつながりを築き始めるのは、 バディであるチハルがいるからです。 チハルが人との間の緩衝材になっている。
水平方向のつながりと言っても、 その手助けをしてくれるバディ無しに話は始まりません。 『斜め論』ではその視点が抜けていると思うんだよなあ。
まとめ
ということで、次は向谷地さんの本を読み始めています。 『斜め論』でも、患者さんたちのバディになって実践をしているのは、 この人だと思う。
「ぼっち→バディ」という飛躍。 そんなことが、この現実世界で可能なんだろうか。
追記
ここのところ続けて読んでいる本に違和感を感じる。 頭痛が痛い。
何かというと、 「垂直か水平か」という分類に人工的な印象がするからだろう。 これは岩宮先生の本にも感じた。 なぜ子どもたちの対人関係が「いつメン」みたいなゲゼルシャフトから始まる前提なのか。 ゲマインシャフトはどこに行った?
結論から書くと「ギャング・エイジ」と呼ばれていたものが 現代において消失したのかもしれない。 保育園児から小学校高学年までの子どもたちで作る集団。 公園で野球と言えば、そうしたお兄さん/お姉さんの集団に入れてもらう。 だから上下関係はあるけど「大人/子ども」ではない。 野球のルールも「2年生までは三振は無し」といった柔軟な運用がされる。 その「子ども集団」が松本先生の論には出てこない。
それはスポーツ少年団では代用できない。 「大人」のいる空間ではダメだ。 そもそも高校野球で試合後真っ先に「監督の談話」をするのが謎だ。 あれは、選手たちを「監督の手駒」と見なしているだろう。 将棋かよ。 まず選手たちを讃えてやってくれよ。
これは端的に言って、今の大人たちも「子ども集団」の体験がないのではないか。 親や教師との「垂直関係」か 同学年の同級生との「水平関係」しかない。 「押しつけか、横並びか」と書いてしまう気持ちもわかる。 服従か競争であって自治=自足を知らない。 不自然な状況を「自然」と思って、その中でもがいているように見える。
たしかに、その「自然」において「私」を作るにはどうしたらいいのだろう。 バディを求めてしまうのはそんなところだろうか。