Jazzと読書の日々

iPadを筆記具として使う方法を模索します

テーマはオープン・クエスチョンである

断片が繋がると気持ちいいのはなぜだろう。

プロポ

日々書き集めた「断片」を後から見直して「テーマ」を発見する。 これをObsidianでするにはどうすればいいのだろう。

そう考えると、ここのところ試していた GridExplorerのカスタムモードや2Hop Linksが「それ」だと思い当たりました。 1年前のノートを見直したり、関連するノートをピックアップしたり。 そうやって自然と「テーマ」に気づく環境を整えていく。

じゃあ、プロポのことを考えてGridExplorerや2Hop Linksを設定したかといえば、 それは違いますね。 アランのプロポを知ったのは後からだし、それにたまたまです。 偶然が重なって「ああ、これはプロポだったのか」と知ったわけです。

とすると、後から見つかる「テーマ」とはなんなのでしょう? 最初から潜在していたように感じるけれど、 実のところ、一通り悪戦苦闘してから「この一連の流れはこうなのではないか」と 後付けで見つけ出す。 いわゆる「事後性」の構造をしています。 出来事が終わってから、その出来事の意味づけを発見する。

事後性とは、ラカンフロイトの言葉遣いから見つけ出した概念で、 症状の原因を「あのときの出来事がトラウマになったのだ」と解釈することです。 でもそれは「トラウマがあれば必ず症状が生じる」ではありません。 地震で被害を受ければ必ずPTSDになるわけでもないし、 虐待を受けて育っても必ずしも精神的に不調になるわけではない。 いろいろな要因が複雑に絡んでいるからです。

一般に「原因があれば結果が起こる」と信じられているけど、 実際には「結果があってから原因を探している」。 それが日常の思考です。 結果がなければ、そもそも何が原因かと考えたりしない。 こうした「結果→原因」の構造を事後性と言います。

これは、症状がフラッシュバックのような身体記憶だからでしょう。 何かの体験を身体的に反復している。 それを「物語」にすることで言語記憶に変換する。 身体記憶には時間性がなく「いま」のこととして恐怖が起こるけど、 言語記憶になれば「過去」のこととして心理的に距離が置けます。 それで心理的に安定する。

テーマはなぜ疑問文か

石黒先生の『段落論』で 「オープン・クエスチョンはクローズド・クエスチョンに変える」 というテクニックがあって、これもプロポかなと思いました。

石黒先生の論だと、人はあらかじめ 「自分のオープン・クエスチョンは何か」 を知っていることになるけど、本当はそんなことないでしょう。 いろいろ文章を書いているうちに、 うっすら自分の問題意識に気づき始め、 それからその問題意識を最初からわかっていたかのように書き直す。 これもまた事後性なのだろうと思いました。

なので、プロポの段階ではまだクローズド・クエスチョンで、 それが溜まってくるとオープン・クエスチョンが浮き彫りになる。 そのオープン・クエスチョンを「テーマ」と呼ぶのではないかと思います。

プロポは「問い」であり「日常の違和感」であり、 「Aなのか、Bなのか」の葛藤や矛盾の形をしている。 普段の思考は二項対立で、安易に結論づけようとすると陰謀論になります。 「全部誰それが悪い」。 それは「問い」を切り上げる簡単な方法だからです。

たとえば「日本人ファースト」にしても 「100%日本人」ってどう定義するのやら。 DNAを調べるとしても「誰のDNAを基準にするか」となって 「うちの党首のDNAが日本人です」ってことでしょ? 二項対立の「結論」に付き合うのはバカバカしい。

でも「問い」は軽視できません。 何か生きづらさを感じているから二項対立が提示される。 日本社会が「不全感」を抱えている。 そもそもその不全感は何か。 そうしたオープン・クエスチョンになって初めて 「テーマ」と向き合うことができます。

「テーマ」は「そもそもそれは何か」や 「なぜそうなっているのか」といったオープン・クエスチョンの形を取ります。 でもそれは「Aなのか、Bなのか」といった 「問い」を積み重ねることでしか見えてこない。 連立方程式を解いていくと 「テーマ」という答えが導き出される。

この「テーマ」は疑問文だから、誰も答えと思わないのかもしれない。 でも疑問文だから、 それがライフ・ワークとなって人生を下支えしてくれるのだと思います。 「問い」への返答が「生きること」の実践となっているから。

まとめ

じゃあ普段「書くこと」をしない人たちはどうしているのだろうか。