Jazzと読書の日々

iPadを筆記具として使う方法を模索します

ブリコラージュとしての文書エディタ

新しいエディタのあり方について。

飛躍は外部から

Tak.さんの文章エディタ論。 無料の範囲しか読んでないですが

80年代から90年代にかけて、文章エディタの世界に物書きの想像力の外から飛躍がやってきた

1行目からハッとしました。

そうそう、画期的なアイデアは外部から訪れるのです。 なんでかな、と考えると物書きは「ブリコラージュ」だからですね。 手持ちの素材を工夫して一つの作品を仕上げる。 器用貧乏が染み付いている。

それはツールに対してもそうで、 筆と和紙しかなければ筆と和紙で文章を書いてしまう。 ノミと石板しかなければノミと石板で英雄の冒険譚を彫ってしまう。 そういうふうに「ありあわせ」を最大限に活用しようとするでしょう。

だから、内部から革新は生まれない。 「こういうツールがあれば、もっとうまく書けるのに」とならない。 現状の手持ちでできることを超えて考えたりしない。

そのため飛躍は「外部」から来たのだと思いました。 たとえばプログラマーの世界から「新しい書き方」がやってきた。 コードを書くのと同じ手法を用いてテキストを加工する道が開かれた。 検索したり一括置換したり。

とはいえ、ここで使われているのも「ブリコラージュ」ですよね。 プログラミングのツールを「執筆にも使えないか」と転用する想像力。 「これはあれじゃないか」のアレゴリーであり「見立て」でもある。 「後で何かに使えそうだ」と頭の隅にとどめ、 機に応じて思い出すことができるケイパビリティ。

物書きはネタを探して彷徨う狩猟採集民であり、 その心性上「無いもの」をイメージするのが苦手なのかもしれません。

文章エディタ

もし以上のような「ブリコラージュ的なお仕事」であるとすれば、 次の世代の「文章エディタ」も外部から来るでしょうね。 別の分野で使われている何かを「これはあれじゃないか」と見立てることで、 それを新たなツールとして道具箱に放り込む。

とすると「今のエディタ」を見ていても「新しいエディタ」はわからない。 むしろ視野を広く持ち「別の分野」に入り込むことだろうなあ。 「書くこと」を忘れてその分野に没頭する。 すると、そこで使われているツールから何か教わるかもしれない。

なので、今考えて「それが何かわかるか」といえば、わからないです。 何が外部となるかわからない。 外部とはそういうものだからです。

でもどうなるかはわかる。 かならず「むっちゃ書きやすく」なります。 「なぜ今までこれを思いつかなかったんだろう」と後悔します。 それが「新しい」の定義だからです。

今までもそんなことが何度もあった。 原稿用紙に書いていた世代はそう思います。 今みたいにパソコンで書くのはイメージしてなかった。 パソコンは統計処理しか使ってなかったものなあ。 だいたい漢字はJISコードで入力するものだったもの。

その上で望むとしたら「長文を書く仕組み」ですかねえ。 文字を組み合わせるのはIMEが行い、 文を組み立てるのはエディタが担う。 そこは枯れた技術になっています。

とするともう一段上のレイヤー、 ノートを組み合わせるツールに決定版がほしい。 ただマージするだけでなく、 全体に一貫性が保たれるような推敲がしやすい。 そういうコンポーザーですね。 DTM的というか。 調子を揃えるための。

高層ビルを設計するときどんなツールを使ってるんだろう。 水回りの動線や電気系統の配線をどう最適化するのだろう。 そういうイメージ。 ノートにノートを重ねることで高層化する。 そこに死角を作らないようにする、 あるいは敢えて死角を謎として残す。 そうした設計を施すためのツールがほしい。

まとめ

「設計」って英語で「design」なのかな。 テキスト・デザイナー。 うーん、ちょっとイメージが違う。 花や蝶を文中にあしらいそうで違和感。

layout。 こちらかなあ。 テキスト・レイアウト。 この部分を扱える文章エディタ。