Jazzと読書の日々

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詰め込み教育について

assorted-color wall frame|600 Backlink | Photo by Robert Anasch on Unsplash

詰め込み教育」と言われるけれど、教育はそもそも詰め込みではないだろうか。

蝉の声

たとえば「徒然なるままひぐらし硯に向かいて」とか「月日は百代の過客にして行き交う人もまた旅人なり」とか、古典の始まりの部分を丸暗記していたりする。 意味もわからないのに字面のまま詰め込む。 でもこれは教養の基礎のように思われる。

子どもに古典を味わう素養はない。 まだ全くの白紙の無知にいる。 スポンジのようになんでも吸収できる無知である。 「閑かさや岩にしみいる蝉の声」と詰め込んでおいて、 ある程度年を取り、夏の山を散策しているおりに 「ああ、これか」と感じ取る。

うん、蝉の声が静寂と重なる。 この感覚、子どものときには気づかなかった。 このことなのかな。 芭蕉が横で微笑んでいるような気配がする。

素読

時間差がある。 言葉が先にあり体験があとからついてくる。 そうしたとき文化の恩恵を感じる。 何も詰め込まずに生きていたら、蝉の声はうるさいだけだ。 詩情を感じるには先に言葉が必要である。

江戸時代、寺小屋で論語などの漢籍素読させたのも同じだろう。 子どもにはわからない。 大人にならないと受け取れない「深み」がそこにある。 でもそれは、子どものうちに覚えることで起動する。

種をまいてから芽が出るまで、待たねばならない。 体験を掬い取るには、そのためのバケツが必要である。 体験の提供はできないが、バケツの用意はできる。 たぶん、それが「教育」ということだろう。

「とき」を扱う

学校教育は詰め込みを恥じているのだと思う。 なので、なまじ「考える力」や「生きる力」を看板にする。 でも「考える力」は素地があって生まれるものであり、それを単体で育てることはできない。 素地とは何かといえば、それが詰め込みである。 家庭環境とか社会状況とかではない。 教育機関でできることが詰め込みなのだ。

新しい外国語を学ぶとき、単語や文法をまず詰め込む。 プログラミングもまずそれだ。 わからなくても、わからないままに、まず全体像をつかむ。 アロー関数とか、いまだに理屈はわからないけど、とりあえず型を覚える。

武道と同じだ。 何度も書き間違え、エラーに遭遇するうち、ある日「そういうことか」と気づくときがある。 この「とき」を信じること。

伝わること

教育の効果はすぐには出ない。 むしろ、一生を支える土壌として隠れている。 間違いがあるとしたら、詰め込み教育に即効性を求めるところだろう。 詰め込みをデータの保存か何かと取り違えている。 アタッチメントを取り付けたら、それが使えるようになると思っている。 人間を機械のメタファーで語る。 それはあまりに愚かしい。

何かを知るとは、そういうことではない。 その人自身が変化を起こすことである。

それは「いつか」はわからない。 遠い未来かもしれないし、明日かもしれない。 そのとき「いま伝わった」と身が震える。 当日の小テストで判明するような浅いことを教育はしていない。 時間差で開く未来を子どもたちに贈与している。

教育者は矜持を持っていい。

まとめ

あとで爆烈するから「積み込み」かな。