今朝は路傍にある庚申塚に目が止まった。 庚申塚とは「庚申」と彫ってある岩の塊である。 十干十二支の「庚申」は60日に一度巡ってくる。 この日は身体に棲む三匹の虫が天に昇り、宿主の日頃の所業を天帝に報告するとされている。 寝てしまうと身体から離れるらしい。 いや、それは大変だ。
人間たちは庚申塚に集まって夜通し酒盛りを開く。 互いに激励しながら睡魔と闘うのである。 なんとも微笑ましい。 宴会を催す口実としか思えないが、本人たちは真剣だったのだろう。 それほど「日頃の所業」に自信が持てないのが人間である。
この「庚申」は三宝荒神の「荒神」と同一視された。 三宝荒神とは三面大黒天、つまり大黒さまである。 もともと仏教で台所の守り神とされた。 大黒天はインドの破壊神「マハカーラ(大きな黒)」に由来する。 三つの顔を持ち、世界の創造・維持・破壊を表している。
台所で料理することに「破壊と創造と貯蔵」の本質を見たのだろう。 さすがインド。 スケールが大きい。 そういえばこの間、円空が彫った三面大黒天を見たなあ。 あのシンプルで愛らしいデザイン性は日本の「かわいい文化」の源流かもしれない。 インドのマハカーラが手のひらサイズになるのである。
庚申信仰の「申」は「サル」なので、三匹の虫は「猿」で描かれる。 見猿、聞か猿、言わ猿である。 日光東照宮の三猿が有名かもしれない。 猿は太陽神の使いとされてきた。 比叡山の日枝神社や日吉神社がこの系列である。 それにしても見猿や聞か猿はいいとしても、言わ猿はどうやって天帝に報告するのだろう。 口を押さえていては何も話せないじゃないか。 話そうと思っても発言が封じられている。
この20年くらいの間に「発達障害」という概念が社会を覆うようになった。 なんとも不思議な概念である。 ASDとADHD。 この二つが目立って取り上げられているが、もう一つ山があるんじゃないだろうか。 「定型発達」という山である。 こんな奇妙な考え方はそれまで聞いたことがなかった。 「発達に定型がある」とは何事だろうか。
「定型」とは工業概念である。 人の手によって、定められた大きさに加工されたものである。 発達に関して工業のメタファーが適用されるのは、子どもたちを加工品と見ているからだろう。 そして、加工しやすい子どもたちが「定型発達」と呼ばれ、そこから外れるときに「発達障害」とされる。 定型発達の人たちは物事を定型でしか見ることができず、枠からハズれたことが起こると「想定外」と言う。 いや、想定しておこうよ。 たぶん複眼視が苦手なのだろう。 ASDの人もADHDの人も複眼視が苦手だけれど、定型発達の人も苦手である。 結論にすぐ飛びつく。
さて、なんで発達障害のことを考えているのだろう。 そうか、いま読んでいるのが國分功一郎と熊谷晋一郎の対談だからでした。 発達障害の当事者研究が序盤のトピックになっていて「でも、それより定型発達障害の研究が要るよなあ」と感じていた。 それが散歩しながら湧き出してきたらしい。
対談自体は面白いです。 犯罪を犯してしまった人が刑務所で反省を促されても、今一つ何を反省すればいいかわからない。 でも、一度「責任」の問題を棚にあげ、じっくり起こった出来事を研究していくと、そこに「自由意志」などないことに気づく。 するとじんわり「悪いことをしてしまった」という気持ちが湧いてくる。 この機序が深いと思いました。
「してしまった」というところが、事態に対して人間が後手に回ってしまう感じ、いつも遅れを取ってしまう。 ここに「中動態」を見る視点が大事だなあ。 そうすると深くなる。 安易に答えの出ない「わからない方向」に開かれていく。
という感じに、散歩しながら連想はあちこちをふらついている。 どこに行くかわからない感じなのですけど、家に帰り着いて振り返ると「複眼視」を巡っていたと思い当たった。 たぶん、國分さんと熊谷さんの対談を読みながら「もう一人欲しいなあ」と思ったのでしょう。 三猿のように。 一つのことを報告するには三つの視点が必要になる。 それは言わ猿のように発言しない立場でもいい。
おー、はいはい。 ここまで書いて気づいた。 言わ猿は「私」ですね。 発言しないけど同席している。 読者が三人目として参加するとき、そこに中心のないバランスが発生する。 対談が鼎談になる。 そういう読み方をどう構築していくか、かな。