Jazzと読書の日々

iPadを筆記具として使う方法を模索します

庚申塚のある風景

今朝は路傍にある庚申塚に目が止まった。 庚申塚とは「庚申」と彫ってある岩の塊である。 十干十二支の「庚申」は60日に一度巡ってくる。 この日は身体に棲む三匹の虫が天に昇り、宿主の日頃の所業を天帝に報告するとされている。 寝てしまうと身体から離れるらしい。 いや、それは大変だ。

庚申信仰―庶民宗教の実像
飯田 道夫
内容(「BOOK」データベースより)大陸渡来の道教とわが国固有の神々や仏教が混淆した《庚申信仰》の奇妙な習俗。比叡山天台との関連を衝いた最新の研究書。

人間たちは庚申塚に集まって夜通し酒盛りを開く。 互いに激励しながら睡魔と闘うのである。 なんとも微笑ましい。 宴会を催す口実としか思えないが、本人たちは真剣だったのだろう。 それほど「日頃の所業」に自信が持てないのが人間である。

この「庚申」は三宝荒神の「荒神」と同一視された。 三宝荒神とは三面大黒天、つまり大黒さまである。 もともと仏教で台所の守り神とされた。 大黒天はインドの破壊神「マハカーラ(大きな黒)」に由来する。 三つの顔を持ち、世界の創造・維持・破壊を表している。

台所で料理することに「破壊と創造と貯蔵」の本質を見たのだろう。 さすがインド。 スケールが大きい。 そういえばこの間、円空が彫った三面大黒天を見たなあ。 あのシンプルで愛らしいデザイン性は日本の「かわいい文化」の源流かもしれない。 インドのマハカーラが手のひらサイズになるのである。

庚申信仰の「申」は「サル」なので、三匹の虫は「猿」で描かれる。 見猿、聞か猿、言わ猿である。 日光東照宮の三猿が有名かもしれない。 猿は太陽神の使いとされてきた。 比叡山日枝神社日吉神社がこの系列である。 それにしても見猿や聞か猿はいいとしても、言わ猿はどうやって天帝に報告するのだろう。 口を押さえていては何も話せないじゃないか。 話そうと思っても発言が封じられている。

この20年くらいの間に「発達障害」という概念が社会を覆うようになった。 なんとも不思議な概念である。 ASDADHD。 この二つが目立って取り上げられているが、もう一つ山があるんじゃないだろうか。 「定型発達」という山である。 こんな奇妙な考え方はそれまで聞いたことがなかった。 「発達に定型がある」とは何事だろうか。

「定型」とは工業概念である。 人の手によって、定められた大きさに加工されたものである。 発達に関して工業のメタファーが適用されるのは、子どもたちを加工品と見ているからだろう。 そして、加工しやすい子どもたちが「定型発達」と呼ばれ、そこから外れるときに「発達障害」とされる。 定型発達の人たちは物事を定型でしか見ることができず、枠からハズれたことが起こると「想定外」と言う。 いや、想定しておこうよ。 たぶん複眼視が苦手なのだろう。 ASDの人もADHDの人も複眼視が苦手だけれど、定型発達の人も苦手である。 結論にすぐ飛びつく。

責任の生成ー中動態と当事者研究
國分功一郎 他1名
内容紹介責任(=応答すること)が消失し、「日常」が破壊された時代を生き延びようとするとき、我々は言葉によって、世界とどう向き合い得るか。『中動態の世界』以前からの約10年にわたる「当事者研究」との深い共鳴から突き詰められた議論/研究の到達点。内容(「BOOK」データベースより)わたしたちが“責任あるもの”になるとき―『暇と退屈の倫理学』以降、お互いの研究への深い共鳴と応答、そしてそこから発展する複数の思考を感受し合いながら続けられた約10年間にわたる共同研究は、堕落した「責任」の概念/イメージを抜本的に問い直し、その先の、わたしたちが獲得すべき「日常」へと架橋する。この時代そのものに向けられた議論のすべて、満を持して刊行。著者について東京大学大学院総合文化研究科准教授著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)國分/功一郎1974年千葉県生まれ。東京大学大学院総合文化研究科准教授。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)熊谷/晋一郎1977年山口県生まれ。東京大学先端科学技術研究センター准教授、小児科医。新生児仮死の後遺症で脳性麻痺に。以後車いす生活となる。東京大学医学部医学学科卒業後、千葉西病院小児科、埼玉医科大学小児心臓科での勤務、東京大学大学院医学系研究科博士課程での研究生活を経て、現職。専門は小児科学、当事者研究(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

さて、なんで発達障害のことを考えているのだろう。 そうか、いま読んでいるのが國分功一郎と熊谷晋一郎の対談だからでした。 発達障害当事者研究が序盤のトピックになっていて「でも、それより定型発達障害の研究が要るよなあ」と感じていた。 それが散歩しながら湧き出してきたらしい。

対談自体は面白いです。 犯罪を犯してしまった人が刑務所で反省を促されても、今一つ何を反省すればいいかわからない。 でも、一度「責任」の問題を棚にあげ、じっくり起こった出来事を研究していくと、そこに「自由意志」などないことに気づく。 するとじんわり「悪いことをしてしまった」という気持ちが湧いてくる。 この機序が深いと思いました。

「してしまった」というところが、事態に対して人間が後手に回ってしまう感じ、いつも遅れを取ってしまう。 ここに「中動態」を見る視点が大事だなあ。 そうすると深くなる。 安易に答えの出ない「わからない方向」に開かれていく。

という感じに、散歩しながら連想はあちこちをふらついている。 どこに行くかわからない感じなのですけど、家に帰り着いて振り返ると「複眼視」を巡っていたと思い当たった。 たぶん、國分さんと熊谷さんの対談を読みながら「もう一人欲しいなあ」と思ったのでしょう。 三猿のように。 一つのことを報告するには三つの視点が必要になる。 それは言わ猿のように発言しない立場でもいい。

おー、はいはい。 ここまで書いて気づいた。 言わ猿は「私」ですね。 発言しないけど同席している。 読者が三人目として参加するとき、そこに中心のないバランスが発生する。 対談が鼎談になる。 そういう読み方をどう構築していくか、かな。