Jazzと読書の日々

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認知科学はどこに向かうのか

いい本なのにタイトルで損していると思う。

心と現実

認知科学の第一人者である鈴木先生の遺稿を川合先生がまとめて新書としたもの。 プロジェクション(投影)という概念で、これまでうまく説明できずにいた心理的現象を網羅しようとしています。 扱っているのは「心的現実」だと思う。

ポイントは「意味」かな。 人間は物事をありのまま見ているのではなく、意味づけのフィルターを通して見ている。

コップを見れば、そのコップの底を確かめなくても、とりあえず「水を注いでもこぼれないだろう」と意味づけています。 だって「コップ」なんだから。

もし水が漏れたりしたら、あらためて底を確かめ「おや、割れてるぞ」と認識を更新する。 今度は「これは、割れているコップ」と意味づけ直す。 そういうふうに生活してますよね。 この「意味づけ」のことを「プロジェクション」と呼びます。

この分野で面白いのは、ラバーハンドの実験だなあ。 ゴムで作った手の模型をテーブルの上に置く。 被験者の手を衝立の裏に置いてもらって、その手と模型とを同時に刺激すると、ゴムの手のほうを「自分の手」のように感じ始めます。 そうした錯覚が起こる。

ここで、本来の手のほうへの刺激はやめて、ゴムの手だけを刷毛で擦ったりする。 トンカチで叩いたり、ナイフで刺したりすると「感覚」が生まれるんです。 「痛っ!」てなる。 思わず手を引っ込めてしまう。 これが「プロジェクション」の働きです。

あと、遺品整理の話も印象的か。 親が亡くなった後、その遺品を整理していて、たとえばお歳暮とかでもらって、まだ使ってないような食器とかなら簡単に捨てることができる。 新品のままの着物とかも知人に譲ったりできる。

でも故人がいつも身につけていたようなものは捨てることができません。 何か「その人のエッセンス」みたいなものが付着している感じがする。 理屈で考えたらそんなことはないとわかっていても、何かが失われそうで洗うこともできない。

これも確かに「プロジェクション」です。 遺品に「意味づけ」がされている。 でも、ラバーハンドの実験と同じかと言えば、どこか違うんですよね。 「意味づけ」ではあるけど「物語」が入ってきている。 時間軸が入っている。

一口に「プロジェクション」と言っても、多様な投影が含まれていて、多分、その整理を終える前に鈴木先生は亡くなられたのでしょう。

認知科学の歴史

本を読む前に、鈴木先生が「認知科学」をどう捉えていたか抑えるといい。

認知科学は3つの時期に分けることができます。 最初は、心理学に「コンピュータのメタファー」が使われ始めた時期。 それまでネズミの実験で「学習」とか「条件付け」とか研究していた心理学が、コンピュータと出会うことで「心」を「情報処理システム」と捉えることができた。 「脳」をハードウェア、「心」をソフトウェアと見なし、心的現象をシミュレートするようになった。

要するに「人工知能」の基礎段階です。 脳天気な理論が多く「脳の働きが解明されたら心もすぐにわかるだろう」と思われていました。 コンピュータのスペックが上がれば「人間の知能」も追い抜いちゃうぞ、と。

でも、すぐに「フレーム問題」が発生した。 プログラミングされたシステムだと、プログラミングされていない情報を環境から取得することができません。 どの情報が必要になるかは状況によって異なります。 その不測の事態にも対応するシステムは理論的に構築できない。 「想定外を想定する」になっちゃうからです。

そこで、第二世代の認知科学では「身体」に注目されるようになりました。 「身体化された心」ですね。 心は身体に規定されることで有限化される。 それでいながら、その身体を変化させてもいる。 二項の間で相互作用が起こり、複雑な状況を乗り切るようにできています。 いわゆる「接地」です。

あと「状況」もキーワードになりました。 アフォーダンスが再評価されて、環境からの働きかけも重視された。 とくに他者がいる状況が人間の心に大きな影響を与えている。 「社会」という文脈も無視することはできません。 人間は「脳」のなかに閉じた存在ではなく、「他者」との関係性において生きています。

第一世代では「脳」だけだったけど、第二世代では「身体」と「社会」が関与してきます。 心は、この三つのレイヤーにおいて存在し、そこに多様なシナジーが働いている。 これらを実験的に取り出し、検証してきた。

フェティシズム

じゃあ、第三世代はどうなるか。

たぶん「意味」をどう扱うかだと思う。 いろいろな仮説が出てきて、鈴木先生は「プロジェクション」に賭けようと思った。 「見る」とか「聞く」とかが、単なる受動的な感覚ではなく、自分から積極的に「こう見よう」「こう聞こう」としている。 それも意識的ではなく、無意識的にそうしたメカニズムが挟まれている。

すると「心」を「脳・身体・社会」の三項でなく、さらに「言語」を組み込むことになるんじゃないか。 読んでいて、そう感じました。 ラバーハンドは「今ここ」の第二世代でも解けますが、遺品整理には「物語」という「言葉の次元」が入ってくる。 ここをどう考えるかとなると、哲学的だなあ。 あるいは精神分析的かもしれません。

『心と現実』でもフェティシズムが取り上げられていますが、一部の病的な反応ではなく、広く人間世界をカバーする問題だと思います。 文化を形成するにも、経済を回すにも、フェティシズムがなければ成り立たない。 「物語」がそれらを下支えしている。

そもそも心をソフトウェアと見立てたときに、それをスクリプトだと考えていたはずです。 ディスプレイには映らない「言葉」によって編み込まれたスクリプト。 要するにラカンの「無意識は言語で構成されている」が隠れています。 面倒だけど、認知科学精神分析の接点を探さないといけないはずだった。 今までサボってましたね。

まとめ

人工知能フェティシズムの夢を見るだろうか。