Jazzと読書の日々

iPadを筆記具として使う方法を模索します

改行を見ると首が疲れる

いま「雨の日の心理学」を読んでるんですけど。

雨の日の心理学

とにかく改行が多い。 東畑先生、千葉さんの「センスの哲学」の影響で「改行力」とか言い出したおかげで、いつにも増して改行が増えています。 マシマシです。

改行が多いと何が起こるのか。

これ、「話しかけている」という感触になりますね。 なるほど。 単なる誌面稼ぎではなく、一行言った後「そうなんですよね」という間が開く。 読みながら「そうそう」と頷いてしまいます。 そういう作戦か。

街角のオープンセミナーなのですよ、雰囲気が。 オーディエンスに向けて問いかけている。 原稿をダラダラ読み上げるタイプではなくて、参加者の顔を見ながら「このことは伝わりましたか」と確認する。 改行の後に、そうした「間」が設けられています。

これはパワポではできせん。 会場の明かりを暗くして、スライドを淡々と流していたら「顔」は見えない。 手ぶらじゃないと「顔」を見ながら話しかけるようには話せない。

共犯者感

手ぶらなので、用意した筋書きはあるかもしれないけど、どの話が出てくるかは「会場」に合わせて変化します。 一文言った後に「顔」を見て、次の一文が湧いてくる。 湧いてきた話をして、また「顔」を見て、別の話に移ったりする。 改行にはそうした語り口を彷彿させる何かがあります。

なので、それを聞いている立場とすると、改行するたび反応してしまいます。 「なるほど」と頷いてしまう。 こうやって引き込もうとしてるんだなあ。 講演会の場に参加している。 積極的にね、相槌を打つことで。 「共犯者」に仕立て上げられる。

ときには「どうかなあ」と首を捻るときもあります。 その医療人類学とやらはどうパーセンテージを出してるんだろ?とか。 レベルの違う話を「わかる」で括ってしまっていいのだろうか?とか。 頷いたり捻ったりで、改行するたび首が痛い。 無意識的に首周りの筋肉に負担がかかります。

「改行」とは話し言葉であって、それを書き言葉として表現する手段になってますね。 原稿を読み上げるだけの国会答弁が、なかなか心に入ってこないのも頷けます。 あれは「話しかけ」ではないからだ。 きっと元の原稿に「改行」が入っていない。 箇条書きにするだけで読み方も変わるんじゃないかと思う。

第3項

それにしても第3項の作り方がうまい。 「世間知vs専門知」の二項対立になりがちなところを、もう一項増やすことで境界線を曖昧にする。 専門知を世間知に応用しやすくなるし、もちろん世間知を専門領域に持ち込んでもいい。

その第3項を「雨の日」や「雪だるま」というアレゴリーで済ますのも達見ですね。 なんとなく「ああ、あの感じか」と接地できる。 しかも個人の性格や特性に繋げるのではなく「日」という時間性に帰属させる。 「類型」や「診断」を寄せ付けずに済みます。 チェックシートでは測れないけれど「確かにそういう日もあるなあ」と体感的にわかる。

しかも「世話」や「お節介」を「雨の日」のケアとして意味付け直す。 「世話」も「お節介」は現代社会では「大きなお世話」として切り捨てられやすいけど、それ無しで社会が動くかなあの提言ですね。 人の関わり合いはどう転んでも「お世話」です。 「世話」自体は仏教語で、語源的にはservantと同じ。 実はtherapyも同じで、古代ギリシアで病人のケアをする奴隷を「テラポン」と呼んだのに因みます。

この「世話」を「傘」のメタファーで「雨の日」のセットにする。 見立てを活用することで、使えるツールを増やしていきます。 話の転がし方がうまい。

ついつい、改行ごとに頷いてしまいますね。

まとめ

マークダウンではこの「改行」が消えてしまいます。 なるほどなあー。 書き言葉としての記法を目指しているからか。

話し言葉として書きたいときは、設定で「厳密な改行」をオフにすべきかもしれない。

おまけ

そしてカレー沢先生も改行の達人だ。 そしてそれが「ひとりごと」なのがすごい。

教室を脱出し、若干周りを見る余裕が出来てはじめて、他人の爆発を願えるのだ。