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精神分析の歩き方

精神分析の歩き方

山崎 孝明 (著)

衰退しつつある精神分析に活気を取り戻すにはどうすればいいかの提案。 精神分析の若手が感じている危機感がひしひしと伝わってきます。 大変なのだろうなあ。

アドラーは無視される

ただ、よくわからないんですけどね。 「エビデンス新自由主義が興隆してきて精神分析が時代遅れになってきた」という分析みたいですが、ホントかなあ。 本屋さんで心理学コーナーを見ると年々縮小されてきて、精神分析が衰退したというより、心理学自体が見向きもされなくなっている。 そっちが問題じゃないですか。

「こころの時代ではなくなった」ではないですよ。 だってアドラー心理学は元気モリモリだから。 一般には精神分析的なものが求められている。 やはり「どう生きるべきか」に悩んでいる人たちは一定数います。

ところが専門書はポイントをハズしてるんですよね。 アドラー心理学NLPに言及しないでしょ? コーチングもそうかなあ。 「正統」とされないのはわかりますが、なぜそうした本が売れているか分析は必要でしょう。 マーケティングなしに営業はできない。

社会モデル

病理の話を延々とされるより、もっと身近な「生きづらさ」がある。 それを名指してほしい。 しかも一者心理学ではなく、二者心理学です。 アドラーNLPコーチングも、個人の困難をその人の問題にはしない。 対人関係に焦点を当てる社会モデルです。

精神分析とは社会モデルのことだと思います。 無意識の発見ならシャルコーがしていたけど、転移に注目したのはフロイトでしょう。 人がふたりいる空間は特殊です。 そして「こころの原型」はこの二者関係にある。 もとは胎児の頃に育んだ、母胎との交流が「こころ」でしょう。 生まれてからは「乳房」との交流になり、「言葉」での交通になり、やがて内言化されて「無意識」となる。

この交流を扱うのに精神分析は一日の長があります。 脳科学では取り扱えない重要な側面です。 人と人がいる場で何が起こっているか。

寝椅子で自由連想をするのが精神分析じゃないですよ。 フロイトが「精神分析の道」で書いてたじゃないですか。 暴露法を使っても症状処方をしても精神分析です。 行動療法が生まれてない時代に暴露法の話をするフロイトフロイトですが、精神分析は治療法のことではない。 それとは別次元の、むしろ基礎となる知の体系です。

そしてまだ全貌は見えない。 衰退以前に、始まってさえいない学問です。

まとめ

だから、まあ、頑張ってください。