Jazzと読書の日々

iPadを筆記具として使う方法を模索します

キャンバスを使いながら考えた

Obsidianでキャンバスを使うと、何か今までとは違う部位が刺激される。 脳の中の作業領域が異なるというか。

平面思考

最近キャンバスに縦横の線を引いて、その二つの軸を元にキーワードを並べる方法がマイブームになっています。 平面で考える。 平面思考とでも言うのかな。 「平面的」って褒め言葉ではないけど、結構深いんじゃないかと。

文章を書くのとは違う何かがくすぐられる。 言語は直線的です。 1次元的で線分を取るというか、分岐点を作って二項対立で組み立てることになる。 「あれかこれか」や「敵か味方か」の構造を作ります。 簡単に陰謀説に陥りやすい。

ところが「平面」を用いて考えると二項対立が二つ出てきます。 縦と横の二つの軸が現れ、領域が四分割される。 これが面白い。 敵も二つの勢力に分かれ、味方にも二つの陣営がある。 すると生まれる戦略が八方に広がっていきます。

この平面思考を取り込むために、人類はチェスや将棋のボードゲームを生み出したんじゃないだろうか。 線形の言語思考では太刀打ちできないものを作り、没頭した。 スポーツも裸で組み合うレスリングから始まり、コートの空間を駆使するラグビーへと進化した。 「平面」を扱う思考を編み出そうとしてきました。

深度

こうしたボードゲームやスポーツには「浅い/深い」という評価があります。 よく考え抜かれた手は「深い」と呼ばれる。 その場の特性を熟知したプレイには「深い」という賛辞が送られる。 深さに対する何かが平面思考にはある。

深さは空間です。 平面ではなく立体。 「平面」の持つ可能性を探る中で「平面」を超えるものが立ち上がってくる。 それを「深さ」という立体用語で捉えます。 シンプルなプレイとは次元が異なるからでしょう。 もう一次元増やした3次元の表現が顔を出す。

言葉の世界でも同じ。 同じような内容を話していても「深い」と感じさせる言葉があります。 リニアな構成なのに立体感がある。 矛盾を孕んでいて、単純な理屈では読み解けない。 そんなところを逃げずに表現している。 そうした言葉は「深い」と感じます。

リニアだからといって、言葉に立体感がないわけではない。 でもそれはアウトライナーの段差とは関係ありません。 段差を深くしても「深い」わけではない。 段差を浅くしても、深い話は深いです。 俳句のように切り詰めた言葉であっても「深さ」がある。

様々な視点からの考察が絡み合っている。 ポリフォニックでもある。 言葉の端々に倍音が鳴り響いている。 聞く人に様々な連想を引き起こします。

ホンモノ

ただ「深さ」がどこにあるかは難しい。

将棋を知らない人が名人の手を見ても「深い」とは気づかない。 最後まで観戦しても、どの手が「妙手」だったかわかりません。 「深い」は「手」にあるのではない。 プレイヤーと観客のいる、その空間に生まれるものです。

ということはプレイヤーがどれほど苦心しても「深い」は生まれません。 観客の目が育つのを待つしかない。 「ホンモノ」を知ってもらう必要がある。 「ホンモノ」を知るとは、自分もその実践に加わること。 将棋のホンモノは将棋を打たないとわからないし、俳句のホンモノは俳句を詠まないとわからない。 自分の「浅さ」に唖然とし、それから名人の「手」を見て気付かされる。 そうした楽しみ方からホンモノが生まれる。

なので、下手でもいいので「やってみる」が近道。

キャンバス

今回のキャンバスはこんな感じ。

キャンバスを「思考の下書き」にする方法を考えてみました。 頭の中で考えると展開の方向が限られるけど「平面」に落とすと切り口が増える。 そうした実験ですね。

二項対立を組み合わせて「平面」を作り、それぞれのエリアに何が該当するかを考えていく。 するとその「考えるプロセス」が「考察」となります。

でもキャンバスに「音楽的」もあるのに、記事に出す機会がなかった。 そこは臨機応変に書くしかないですね。 「俳句」に連想が飛んだからなあ。 まあ、いっか。

あと「循環」もあるかもしれない。 「言語的なもの」を「平面的なもの」に変換する作業はこのキャンバスそのものだし、キャンバスを深めると「立体的」になっていく。 その「立体的なもの」を書き直したのがこの「記事」なわけで、ここは「音楽的」な象限に含まれるはず。 今一つ「音楽的」が何かわからないけど、一応くるっと回っています。

まとめ

何か「気になること」から二項対立を何通りも取り出し、そのうちの二つを組み合わせて「平面」を作る。 それが「気になること」を調理する足場になってくれる。