Jazzと読書の日々

iPadを筆記具として使う方法を模索します

TextwellにGyazoの画像を埋め込む

「ブラウザのバージョンが古い」と言われたので。

Gyazo

ブログにスクリーンショットを埋め込むに使っているのがGyazo。 ネット上に画像をアップロードするサービスです。

このごろTextwellの内蔵ブラウザでアクセスすると「古いブラウザでアクセスしないでよね」ってメッセージが出るようになったので、User Agent をiOS17用にしました。

iPadのままiPhoneのフリをするのでちょっと画像が選びやすい。

Import Textwell ActionGyazo

使い方

空行で起動するとGyazoを開きます。 この画面に写真をドロップするとアップロードになります。 対象となる画像を開いて内蔵ブラウザを閉じればimgタグで貼り付け。

カーソル行がGyazoのアドレスであれば、直接それをimgタグ付きに変換します。 Gyazo以外でも拡張子がjpgやpngであればimgタグになります。

カーソル行がYouTubeアドレスの場合は動画プレーヤーでの埋め込みになります。 Twitterやx.comの場合はツイートの埋め込みになります。

それら以外は、はてなブログカードに変換して埋め込みます。

Unsplash

カーソル行がURLアドレスでなければ、画像サービスのunsplash.comで検索します。

前までは計算機能にしていたのですが、あまり使う機会がなく、画像繋がりでアイキャッチ作成に転身するのが良いかなと思いました。

画像を選択してから内蔵ブラウザを閉じてください。

User Agent

ブラウザのバージョンをWebに提示するユーザーエイジェント。 iOS17だと下記のようになっています。

Mozilla/5.0 (iPhone; CPU iPhone OS 17_0 like Mac OS X) AppleWebKit/605.1.15 (KHTML, like Gecko) Version/17.0 Mobile/15E148 Safari/604.1

これって手短にできないのかな。 まず記憶できません。 嫌がらせでしょうか。

まとめ

User Agent、他のアクションもバージョンアップしないと。

今日から使える「言語ゲーム」

黒と灰色の石のスタックの写真 – Unsplashの無料ボカラトン写真

まだわからないけど、わかった範囲でまとめておこう。

言語ゲーム

ウィトゲンシュタインの作った「言語ゲーム」という考え方。

いろいろ解説書を読んで「言語ゲームとはなんぞ?」と考えてきたけど、その考え方じゃあ「言語ゲーム」に行きつけないと思った。 「概念Aの本質とは何か」というタイプの「問いの立て方」が哲学に蔓延していて、それを笑い飛ばすのが「言語ゲーム」。 「〜とはなんぞ」と問うてしまうと落とし穴に落ちる。

それに、もし「言語ゲーム」の勘所がつかめたとして「わかったわかった」なら面白くない。 「わかって終わり」じゃなく、日常生活でも使いこなして、これまでとは違う体験を切り開くのじゃないと時間をかける甲斐がない。 生きることと直結したところの「言語ゲーム」を知りたい。 身につけたい。

すると「生活の中での言語ゲームとは何か」だろうなあ。 定義ではなく、どういう実践に繋がっているのか。 そこを考えてみたい。

語用論

ウィトゲンシュタインも「無」から「言語ゲーム」を思いついたのではないだろう。

ソシュール言語学を意味論や統語論、語用論に分類している。 その語用論が「どう使われているか」という観点なので、この系列に「言語ゲーム」は位置すると考えられる。

従来の哲学は「意味論」だった。 たとえば「意志とは何か」と問いを立て、その「意志」の本質を考えるのが哲学だった。 言葉より先に「意味」があるという前提で話が進む。 言葉を定義しようとすれば「何が本質であり何が偶有に過ぎないか」という論の構造になる。 その本質が「イデア」や「ウーシア」と呼ばれ、永遠不変の存在と考えられた。 あるいはカントのように「物自体が本質であり、人が捉えることができるのはその現象に過ぎない」とニヒリズムに陥ったりした。

ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」は、哲学を語用論として再構築しようという実験なのだと思う。 これはちょっと「言葉」について考えると納得の行くことで、子どもが言語を習得するときを見てみればわかる。 子どもは辞書的な意味を覚えたりはしない。 言葉を覚えるとは「定義」を記憶することではない。 文法を覚えてから言葉を話すのでもない。 定義やルールを教わることなく、ただ「言葉」を使うようになる。

「ネコ」は「ネコ」である。 決して「四足のネコ科哺乳類」ではない。 「ネコ」を覚える前に「ネコ科」を覚えるわけはないし、そもそも絵本に書かれた「ネコ」を見ても「ネコ」と呼ぶし、ぬいぐるみであっても「ネコ」だと認識する。 「その『ネコ』の本質は何か」と問いかけても、子どもは首を傾げるだけだろう。

語用論は pragmatics という。 ソシュールプラグマティズムから着想したのだろうか。 カントが『人間論』で pragmatisch という形容詞を使っていたので、そこまで遡れるかもしれない。 哲学から言語学に取り込まれ、その言語学から哲学に逆輸入された。 それが「言語ゲーム」の正体と思われる。

再創造

意味論と語用論の違いだとすると日常はどうなるだろうか。

もし意味論を採用すると「正解」があらかじめ存在することになる。 「学校」のような社会をイメージしてみるといい。 どの言葉にも「正しい意味」があり、人が対話するとしたら「どちらが正しいか」の力比べになるだろう。 「正論」のある世界である。 言葉は「情報を持つ者から持たない者への伝達」としてイメージされる。 互いが「自分は情報を持つ者」と自認するなら、その対話はディベートになる。

それに対し語用論は「言葉の正しい意味など知らなくても言葉は使える」の世界である。 そもそも自分がどんな定義をして言葉を使っているかさえ知らない。 そこでの対話は、その都度「言葉の意味」を作り直すプロセスである。 モデルとすれば「ディベート」ではなく「哲学対話」に近いだろう。 真偽判定が「正しいか/間違いか」ではなく「ぴったり来るか/来ないか」で行われる。

「ぴったり来るか/来ないか」は今話している文脈に「ハマるか/ハマらないか」の感覚である。 ハマれば「本当だ」とか「ほんまもんや」とかの感想が双方に生まれる。 決して「みんな違ってみんないい」の相対主義でもない。 どちらもが腑に落ちる落としどころを懸命に探す。 それが言語ゲームである。

自分を振り返っても、言葉の定義を知った上で話をすることは少ない。 「意味論的な対話」というのは不自然な状況である。 ないわけではないが、まあ、マウントを取るときですね。 「あら、知らないの?」とか言っちゃうとき。 漫才に譬えると「ツッコミ」のときが意味論的。 これはアイロニーでもあるから、思考を深めるのに必要なことでもある。 ちゃんとWikipediaで裏を取ってから考えよう、とか。

でもそれだけだと行き詰まります。 息も詰まる。 新しいものが生まれてこない。 「正しい」を一旦は棚上げして、二人の間で「ぴったり来るもの」を探してみる。 言葉を再創造する。 再創造は re-creation です。 もう一度その言葉が生まれる現場に立ち合う。

言葉遊び

言語ゲーム」の原語は Sprach Spiel で頭韻が揃ってるんですよね。 これ自体が言葉遊びになっている。 「言語ゲーム」も「ゲ・ゲ・」ではあるけど、わざと揃えたというより英語 language game からの直訳っぽい。

Spiel は英語の play に当たる言葉なので「スポーツをする」「役を演じる」「音楽を演奏する」といった場面を含みます。 「ブレイバーンの歌ってどんなの?」と聞かれても、定義や意味で答えることはできません。 ウィトゲンシュタインの言うとおり「歌を答えようとするなら、歌ってみるしかない」。 その感じが Spiel 。

歌を歌で答えるのは「再創造」です。 「もう一度歌う」という形でしか示せない。 言葉を考えることは、そのたびに「言葉」を創造すること。 話し合うたび「そうか、そういうこともあるのか」と発見を積み重ねる。 手段がそのまま目的であり、どこか別のところにゴールがあるのでもない。 いや「ああ、これかあ」がゴールでもあるかな。

これは「自己とは何か」でも同じだろう。 「自己」を示すには「自己として生きる」を示すこと。 これを意味論みたいに「自己の本質」という方向に進むと、出口を見失ってしまう。 「何か」が先にあって、それが「自己」と呼ばれるのだと考えると、「魂」なり「脳の構造」なりを持ち出すことになる。 それは意味論の罠だと思う。

語用論で考えればいつでも「自己」は示せる。 「ほれ、これが『私』なのです」と。 でもそれは、指示されるものが先にあるわけでもない。 活動としての存在だから。

仏教の無我論に似ているなあ。 ウパニシャッド哲学の、輪廻転生する主体としてのアートマン。 その「霊魂」みたいな存在を、仏教では否定してしまう。 薪が燃えている間そこに「火」があると見てしまうけど、「火」は活動であって、「火」という実体が存在するのではない。 「自己」もまた、そうした再創造である、と。

まとめ

言語ゲーム」はソクラテスがやってた対話ですね。 哲学は対話だったのに、だんだん「偉い人のひとりごと」になってしまった。

むしろ日常に「言語ゲーム」はある。 ただ、うっかりすると日常も意味論的な「正論でのパワーゲーム」になってしまう。 そこを避けるにはどうするか。

Paperでタイプライターモードが使える

時間制限があるけど。

Paper

Paper – Writing App 70
分類: 仕事効率化,ユーティリティ
価格: 無料 (Mihhail Lapushkin)

Obsidianのファイルをちょこちょこ修正するとき使うエディタ。 変なdataviewを書いて起動がおかしくなるとこちらで訂正する。 ローカルファイルを直接編集できる必需品。 subtextとか変遷してきましたが、今はこのPaperです。 URLスキームもpaper://

無料でも使い勝手のいいサブ・エディタですが、PRO版に「Typewriter Mode」があります。 サブスクしなくても試用できます。 数分おきにメッセージは出ますが「Ask again later」で先送りできる。 実質無料。

タイプライター

右上の歯車ボタンが設定です。 「Typewriter Mode」をオンにし、「Focus Mode」を「sentences」にします。 するとカーソル行だけ色が濃くなり画面の中央に来る。 目を上下に動かさなくていい利点があります。

サブスクを促すメッセージは、時間というより、タイプ数かもしれません。 何文字か打つと、思い出したように出てくる。 あまり煩わしくない範囲です。

アウトライン

ファイル名のところをタップすると「Outline」があることに気づきました。 見出しにジャンプする機能です。

しかも「Rearrange」で並べ替えもできる。 Obsidianだけかと思っていたら、この方法、広まっているのかもしれない。 Markdownを有効活用できます。

PDF化

さらに、Markdownに対応した印刷機能もあります。 Print。 これも何かと便利ですね。

プリンターはなくても、印刷のプレビュー画面をピンチインするとPDFが表示されます。 このPDFをいろいろ使い回すことができる。 ObsidianだけだとMarkdownのPDF化が難しいので、このPaperの機能は役立ちます。

ただイメージの表示には対応してないのでテキストだけになりますが。

まとめ

小回りが利くサブ・エディタはiOSに欠かせません。

Obsidian Memos が Thino になりました

あまり変わってないみたい。

Memos

開発がクローズドで進んでいた新Memos。 今日から一般公開になりました。 Thinoという名前に変わっています。 ハリー・ポッターの「瞑想法」のこと?

Import Obsidian: Thino

一度 Memos をアンインストールしてから Thino をインストール。 インストールするとプラグイン名は「Obsidian Memos」なんですけど、 気にしない気にしない。

使い方

Thinoに書くとデイリーノートにタイムスタンプ付きで保存されます。 つまり、デイリーノートに草生えるw。 チェックボックスのボタンもあるのでタスクも行けます。

Obsidianは「ライフログ」を兼ねているのでデイリーノートが肝なのですが、それをわざわざ開かなくていいのがThinoの利点です。 サイドパネルを開けばデイリーノートを覗けるし書き込める。 ドラッグで本文に持ってくるのも簡単。

LifeLog

拙作のLifeLogはThinoと同じ形式を採用しています。 デイリーノートにメモを残したり、Safariのブックマークを保存したり。

これがThinoに表示されるので「今日は何したかなあ」の振り返りがしやすい。 めんどくさがりなので、ログが自然と出来上がり、それがタイムラインで表示されると日常の構造が見て取れてうれしい。 あまり深くは生きてませんw。

Thino

Thino自体はネット上の展開を考えているようで、有料版は多機能だけど、どうだろ。

個人的にObsidianは「オフライン・サービス」だと思っています。 オンライン・サービスのアンチテーゼですね。 オンラインにデータがあると、そのサービスが終了したり改悪したりすると継続して利用できなくなる。 過去の資産が「無」になってしまう。

それに対しObsidianは「サービスがなくなってもデータはなくならない」がコンセプト。 データをローカルに保存する。 Dynalist自体はオンラインなのに、逆方向のアプリを出してきた。 このインターネット時代に「ローカル・ファースト」ですからね。

ただし「エディタ」でもない。 エディタならtxtファイルも読み込めるようにするでしょう。 でも頑なにmdファイルに固執し「エディタ」にも「否」を突きつけている。 文章との新しい付き合い方を切り拓いています。

まとめ

そしてその「新しい付き合い方」はユーザに一任されている。

Textwellをカードにして並べ替える Index

Obsidianの「アウトライン」に当たるもの。

Index

Zoomを使ってブロックごとに書く方法が定着してきました。 なかなか便利。 見出しのことを考えなくて済むし、余分な機能に気を取られることもない。

それでZoomに合わせた「見出し表示」を作ってみました。 いわゆる「目次」。

Import Textwell ActionIndex

GitHubスクリプトを使うのでオフラインでは動きません。

使い方

####を区切りと見なし、テキストをカードに分割します。

カードをタップすれば見出しに移動。 カードをドラッグすると並べ替え。 カードの左端のタグをタップすると削除(削除されたカードはクリップボードに保管されます)。

検索欄左横の「▶︎」をタップすると空行区切りでカード化します。 従来のCardyですね。 この状態で並べ替えることもできる。

もしTextwellが空欄のときはファイル読み込みの画面になります。

検索機能

検索欄にキーワードを書くとカードを絞り込みます。 正規表現に対応。 大文字/小文字は無視します。 タイトル欄にヒット数を表示します。

Indexを起動するとき範囲選択していると、その範囲をキーワードと見なし、自動的に検索モードになります。

さらに左横の「▶︎」をタップすると一括置換になります。 置換語に改行を含めたい場合は \n ではなく、そのまま改行してください。 「replace」で実行になります。

カードの魅力

テキストをカードにしたい。 そのテーマで何度も試行錯誤しています。 Scrivenerのコルクボード機能がいいからですね。 あれは書きやすい。 あれを取り入れたい。

でも、Scrivener自体は他のアプリとの連携が考えられていません。 自分とこでなんでもできるように閉じている。 設計思想としてわからなくはないけど、エコロジカルに見たとき浮いてしまうわけです。 アプリ中心になっていてテキスト中心ではない。

Obsidianの「アウトライン」もカード化の一種です。 ただ、そこだけになっている。 カード単位での削除や編集までは考えられていない。 Zoomプラグインと組み合わせてやっと意味をなす。 もう一歩踏み込んでほしいんですけどね。

テキストをカードの集まりとして扱う。 手作業でならよくやること。 カードに文章を書いて並べ替え、全体の構想を練る。 それがエディタでも「ふつう」にならないかなぁ。

まとめ

それにしてもTextwellは指に馴染む。

Obsidianのプロパティを hidden にする css

「Properties」が「プロパティ」となってからの懸案事項。

プロパティ

日本語表示になってから目障りに感じる。

英語だとアイコンと同じ「記号」と認識するのに、日本語になったら「文字」として読み取ろうとするのかな。 脳の言語認識機能に関わる問題が潜んでいますね。

要するに「プロパティ」の文字があると、そちらに目が奪われてしまう。 これは本文を書くとき少々不都合です。

noproperties.css

「プロパティ」の表示を消します。

.metadata-properties-title {
  visibility: hidden;
}

.no-properties {
    --metadata-display-reading: none;
}

カスタムcssとして登録するだけ。

使い方

画面がスッキリします。 開くための「>」は残るので、使う分に支障はありません。

cssclassesno-propertiesを設定すると、リーディングビューのときプロパティ自体を非表示にできます。

代用コンテント

色付きで別の文字に置き換えるのもあり。

.metadata-properties-title::before{
  visibility: visible;
  content: "meta";
  color: rgb(255, 0, 0, 0.2);
}

上記cssを追加すると「meta」になります。 「▷」や「□」もいいかもしれない。

.metadata-add-button {
  display: none;
}

「プロパティを追加」も隠すなら上のcss。 Style Setting プラグインでも隠せるけど。

まとめ

「プロパティ」を長押しすると「ファイルプロパティをクリア」が出てきます。 消すのも簡単。 追加はツールバーに「ファイルプロパティを追加」を載せるといいかな。

「心理療法を語る」をゲーム分析する

言語ゲームとして心理療法はどんな構造になっているのか。

心理療法を語る

成田先生が分析的心理療法について語った講演集。

最近ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」がブームなので、その文脈で読んでしまいました。 成田先生、ごめんなさい。 でも「心理療法」は将棋やチェスのようなゲームとして扱えるんじゃないかな。 ルールについて書いてある本は多いですけどね。 達人の視点はそこにはない。 ゲームとしてもう一段上を見ている。

よくある心理療法の本って「定跡の話」だと思います。 「こうした手順で自分の行動をモニタリングしてもらいましょう」みたいな。 定跡に沿っているうちはトントンと先に進む。 それはそれで悪い話ではありません。 でももしその定跡通りに行かなかったら。

素人はそこで手詰まり。 プロはそこからが仕事。 正念場が日常茶飯事になっている。 将棋の「駒が、俺を使え、とささやいてくる」と同じ。 心理療法家もそんなゾーンで仕事するみたいです。 怪しいですね。 疑ってるんじゃないですよ。 怪しい世界。

自分が積み上げてきたセンスに信頼を置いている。 心の奥底から「声」がしてきて、それに従っている。 定跡から外れたときこそ勝負どころ。 そんな世界を成田先生は描いています。

言語ゲーム

言語ゲームとして見ると、成田先生の心理療法は「自律した大人になるゲーム」です。 成熟した個人に成長するプロセスとして心理療法を考える。

クライエントが未熟なわけではありません。 未成熟だから病気になるわけでもない。 未熟を見つけてトレーニングしようというのでもない。 ここが不思議ですね。 「自律した大人」という目標は明確なのに、それがどう治療になるかは曖昧としています。

どちらかというか、この目標はセラピストを規定するもの。 まずクライエントを「自律した大人になる存在」として扱う。 そしてセラピスト自身も「自律した大人」として振る舞う。 この2点の筋を通すために「自律した大人」という目標が立てられています。

クライエントを「さん」づけで呼ぶ。 きっとその人自身の思いがあるだろうと信じて話を聞く。 外から目線でその人を評価したりしない。 「大人」として扱うことで、人は「大人」として成長していく。 そういう言語ゲームです。

これは反対を考えればいいかな。 もし子ども扱いされたままの人がいたら、その人がどう振る舞おうと「子どもの振る舞い」になってしまう。 まあ、今はそうでもないと思いますが、学校で生徒を呼び捨てにしたり「ちゃん」づけで呼んだりする。 そういう場面に置かれると生徒は「子ども」の型にはめられてしまいます。 成長を阻害される。

大人とは何か

では「大人」とはどんなあり方のことか。

成田先生はいろいろ定義しようとしているけど、どれもハズしています。 欧米の価値観というか、男性中心社会に都合のいい発達観が混ざっている。 アメリカの心理学を持ち込むとこうしたことは起こりやすい。 そのまま読んではいけないところ。

成田先生が目標としている「大人」は、それぞれの講演で成田先生が示している態度のことです。 そう考えるとスッキリする。 自覚されてないようだけど。

心理療法においてセラピストは「大人」として振る舞わねばならない。 そのセラピストが講演するなら、その講演も「大人」としての講演です。 なので、成田先生自身の考察や論の進め方が「大人であるという言語ゲーム」を表しています。

それは何でしょう。 端的に書けば「葛藤を自分事として引き受ける」ですね。 葛藤に巻き込まれることで人は病気になるけれど、その葛藤を自覚し、それを自分の課題として引き受けると、病気として表現する必要はなくなる。 「葛藤を引き受ける」を「大人」と考えているから、成田先生自身もそれを実践して読者に提示しています。

現代という葛藤

では、その「葛藤」は何か。 片方は明示されています。 機械的身体観という近代の人間像です。 治療の場合だと、病気の原因を特定し、それを切除して代用物に置き換える方法。 自動車修理工の人が車の壊れた部品を見つけ、新しい部品に取り替えるのと同じデザイン。 これが社会にも拡張されて「専門家と利用者」の関係になっている。

反対を考えると「生命体としての身体」がありそうですが、そこは書かれていません。 でも成田先生が「生身の関係」として描くのはこちらのことでしょう。 「夫婦は夫婦になるのが目的であって、何か別の目的のために夫婦になるのではない」という例が挙がってますが、それは「機械的」ではない。 「生身」としか言えないものです。

成田先生が描く葛藤は「機械的人間観 vs 生身的人間観」です。 機械的人間観はデカルトの発明だけど、デカルトが言ったからそうなったんじゃなく、産業革命後の社会に潜んでいたのがそれだったのでしょう。 機械のメタファーで物事を読み取る。 細胞も一種の機械だし、宇宙も機械。 社会もまた機械として動いている。 それが現代社会を支えています。 無視はできない。

でも人間の「生身」にとっては違和感がある。 「生身」は情の通った交流を求めるし、魂の震える感動を探している。 そこをフロイトは「リビドー」と呼んだのであって、単なる「性欲」ではない。 「本当の気持ち」としか表現できない何か。 機械的な因果関係からこぼれ落ちてしまう「ソレ」を語る。 こちらもまた無視することはできない。

サイボーグ化する自己

現代社会に内在する「葛藤」が精神症状を生み出し、その「葛藤」を引き受けることが「治療」になる。 そうしたデザインの言語ゲーム。 それが成田先生の心理療法です。

でもこれ自体はルソーの「自然 vs 人工」の図式じゃないかな。 西洋では昔から続いていて「現代」に限ることではない。 誰もが暗黙のうちに受け入れている物語なので使いやすいし「どう社会を変えていくか」の社会参加に道を開いている。 それが心理療法の暗黙の前提になっています。 「病気」と向き合うことが「いい社会」への近道になる。

それでいて、こうした「大人」のイメージは、日本では戦後に作られたものかもしれません。 馴染みが薄い。 高度成長期に急速な工業化が進み、西洋に追いつこうとした。 「東洋 vs 西洋」の対立を「自然 vs 人工」に投影したものであって、実は平成あたりから消えてきてるんじゃないかとも思います。

「葛藤を引き受ける大人」なんて異様な価値観は一時的な現象に過ぎない。 レトロな雰囲気を醸している。 だって最近見かけない。 「高倉健」はもういないじゃない?

今の時代は「動物」と「機械」の融合体として自己イメージができてるんやないかな。 「葛藤」の形を取るよりは「サイボーグ」になっている。 コンクリートに囲まれ「コスパ」を生きる身体。 そうした「言語ゲーム」が展開されている。

いま「大人になる」とはどういうことか。 誰もが語ることを避けている。

まとめ

「それでもささやくのよ、私のゴーストが」。 全身義体化しても「生身」は残るのだろうか。 それともそれは「昭和」の人間だけだろうか。