Jazzと読書の日々

iPadを筆記具として使う方法を模索します

人はあまり論理の流れを気にしない

Little Rebba, coming to sit next to the window and beg for some extra snacks. She is tame, but still wild and comes and goes as pleased. The foxes on my photos are all wild and shot in natural environment where they live. Lets say i am lucky to live in icelandic mountains and interact with the only wildlife that is around|600 Backlink | Photo by Jonatan Pie on Unsplash

本を読んで前3ページ分くらいの流れはわかるけど、最初の1ページめから繋がっている文脈とか頭に入ってないですね。 どういう組み立てで、今このページに来ているのか。 鳥頭だからすぐ忘れる。 トイレに行ったりすると、もう忘れる。

加齢によるものなのかなと思ったりもするけど、若い頃からそんな調子だった気もします。 前後の繋がりがおかしければ気づくけど、全体的にどういう論理展開をしているかまでは考えない。 「第3章で検討したように」って何の検討してたっけ?

全体像は不在

お固い専門書でも、読みながら全体像とか思い描いてないですね。 「ここで言ってることは2章の結論と矛盾を起こすじゃないか」とか気づきません。 面白い喩え話や風変わりな思考実験のところだけ覚えていて「なるほどなあ」と感心したりする。 視野が狭いというか、学者に不向きというか。

それに印刷物ってそれだけで「ちゃんとしたことが書いてある」というオーラを放っています。 辻褄が合わないように感じたら、それは読み手であるこちらの理解が及ばないせい。 著者は深いところを見通していて、凡人である「私」にこの本は早すぎた。 もっと大人になってから読まないと。 と、自分の至らなさを痛感するようにできています。

もしかしたら書いている人も無茶苦茶書いたのかもしれません。 生成AIが適当に文章を繋げただけかもしれない。 でもそれで構いません。 別にその著者の思考をコピーするために読むのじゃないので、論理展開そのものに関心が向かない。

たぶん「目から鱗が落ちる体験がしたい」と思って読んでいるから、部分に反応するわけです。 読むことを通して自分が変容したい。 変身願望でもあるのでしょうか。

目の鱗

だとすると、自分が書くときも全体の論理なんてどうでもいいんじゃないかな。 アウトライナーできちきちに文脈を固めるのってあまり向いてないんですよね。 断片的なアイデアはあるので、それを並べて飾っておきたい。 アンティークショップみたいな作りの文章をついつい書いてしまいます。

たぶん自分で書くにしても、書いている途中で「ああ、そうか」と目の鱗を落としたいのです。 そこまで書いてきたことが根底から覆るような体験をしたい。 「そんなこと、考えたことなかった」と自分でびっくりしたい。

ありきたりな話ならどこにでもあります。 誰か他の人が書いてくれるでしょう。 自分が書くとすれば、天地がひっくり返る体験をしたい。 そしてそれを共有したい。

とすると、そこまでの文章は論理的に繋がっていないと困ります。 穴だらけのロジックを展開されても、それが覆ったところで「そりゃあ、そうだろう。穴だらけなんだから」と思われてしまう。 いや、人がどう思うかじゃないなあ。 自分が納得しない。 積み上げてから崩すのじゃないと面白くない。 これはポトラッチみたいな「祭り」なのだろう。

だとすると前半はギチギチにロジックを固めて攻めるか。 でもそれだと、初めのほうを読むうちに飽きちゃいそうだ。 先行研究の話を長々とされても「そんなの知ってる」と思われ、そこで読むのをやめられたら、どんでん返しまでついてきてもらえない。

じゃあ、どうするか。

ありきたり

読んでいて感動すら覚える論文って時にはあって、そういうのは実は「ありきたり」をうまく料理しています。 ありきたりを侮ってはいけない。 下手なのは突飛すぎて日常にくっついていないというか、着地ができてないんですよね。 うまい論文には日常を再発見させる仕掛けがある。 だから目から鱗が落ちるわけです。

だって知らないことの知らない話をされても、そもそもそこに「鱗」は生えていません。 「へぇ、そうなんだ」と感心することはあっても、心は揺さぶられないし、安全地帯のまま。 知識は増えるけど、目から鱗が落ちるわけではない。

かといって、足元の地面を崩され、奈落に落ちたいのでもありません。 人生を全否定されたいマゾヒズムでもない。 ターゲットは「目の鱗」です。 カラーコンタクトが取れて「ありきたり」が今までと違ってくる。 ありのままの世界が見える。

あ、「ありのまま」はちょっと違うかもしれない。 鱗が取れたところで別のフィルターはついているでしょう。 紫外線や赤外線が見えるわけではない。 人間として見えるものに限られてはいる。 でもちょっと世界が輝き始める。 「ありきたり」の良さと儚さを再確認するような。 そういう体験をしたい。

プロットを考える

こう考えると、それなりに読めるものを書くとしたら「推理小説」をモデルにするのかな。 早めに事件を起こして「いや、これはどういうことだ?」と謎を持たせ、いったん従来からあるような話を展開しながら、それだと真犯人を取り逃してしまう。

そうなったところから、別の読み筋、オルタナティブな仮説の検討に入っていく。 「これなら行けそうか」といったあたりまで引っ張ってから「しかし、この仮説には短所があり、それについてはさらなる研究を待たねばならないだろう」と逃げ切るとか。 そんなプロットで論を展開してみる。

そうするとやっぱり「話の筋」といったアウトラインは必要だな。 そこでアウトライナーを使うとしよう。 でも最後に「謎」が逃げて行っちゃうのはどうだろう。 推理小説だったらフラストレーションがたまるんじゃないかな。 むしろ「謎」を主人公にすればいいか。 「謎」の視点から事件が進行し、最後に「明智くん、また会おう」と高笑いとともに夜空に消えていく。 そういう展開にしようか。

なにを書いてるんだっけ?

まとめ

空いている時間に書いた文を並べてみました。 脈絡がないように見えて、どこか繋がっている。 同じ問題意識を共有して、その角度を変えている感じでしょうか。

まあ、自分が思いついたことを書く限り、いま抱えている問題意識が浮き彫りになるのも当然ですけど。 この問題意識自体を、書く前には気づいてなかったりする。

後記

ブログにアップして読み直すと「目から鱗が落ちる」だな。 やっと客観視できる。

ありきたりな表現だけど「目の鱗」って実際はどんな事象を指しているんだろう? どうも、そこに関心があってぐるぐる思考が回っているらしい。 「認知バイアス」という言葉だと「バイアスのない状態」を前提にしてるけど、それはあり得ない虚構だと思うし。