Jazzと読書の日々

iPadを筆記具として使う方法を模索します

書くことは返事を書くことである

red paper on yellow surface|600 Backlink | Photo by Lucas George Wendt on Unsplash

誰かと話をして、あるいは、何か本を読んで「それに答えたい」と思うと人は文を書く。 何か答えることを求められていると思うからだ。 でもそれは「答え」ではない。 「応え」に近い。 つい返事をしてしまう。 その感覚が思考を生む。

レスポンシビリティ

これは刺激に対する反応だろうか。 いや、反応というには複雑すぎる。 目の前の刺激に対し、内側でさまざまなものが呼応する。 そのさまざまなものに対し「応え」を要求される。 騒然としたポリフォニックな感覚だ。

実のところFlipboardがTwitterに対応しなくなったことは大きい。 たいていのネタはFlipboardから拾っていたのだろう。 「ここが使いにくい」とあればシメシメと思う。 自分も使いにくいと感じていた。 それを他の人が呟くと「ああ、やっぱり」と言葉にできる。 言葉にできると問題が見えるので、あとは対応法を考えるだけだ。

対応法には「自分でできること」と「できないこと」がある。 「できること」はやってみればいい。 スクリプトを組んで試してみる。 あるいは自分のやっている手順を分割してみる。 そうこうしていると、新しい発見がある。 これはこれで楽しい。

「できないこと」に対しては、問題を深掘りする。 問題の何が「問題」かを分析してみる。 それは自分の中の先入見、思い込みの発見につながる。 「こうあるべきだ」が雑草のように根を張り思考を止めていたと気づく。 こういうのも楽しい。

パスを受け取る

気流の鳴る音―交響するコミューン (ちくま学芸文庫)
真木 悠介
カスタネダの著書に描かれた異世界の論理に、人間ほんらいの生き方を探る。 現代社会に抑圧された自我を、深部から解き放つ比較社会学的構想。 【目次】 気流の鳴る音(「共同体」のかなたへ/カラスの予言―人間主義の彼岸/「世界を止める」―“明晰の罠"からの解放 ほか) 旅のノートから(骨とまぼろし(メキシコ)/ファベーラの薔薇(ブラジル)/時間のない大陸(インド)) 交響するコミューン(彩色の精神と脱色の精神―近代合理主義の逆説/色即是空と空即是色―透徹の極の転回/生きることと所有すること―コミューン主義とはなにか ほか)

誰かから何かを託されている。 パスを受けている。 自分の研究領域でも、ただ自分ひとりなら「謎」はないだろう。 ぼーっと生きるだけである。 各駅停車に乗り、揺られながら居眠りしているうちに、終着駅に着く。 人生の終わりがやってくる。

誰かに声をかけられ「謎」を託されることで目が覚める。 もはやFlipboardの話ではない。 最近では真木悠介の『気流の鳴る音』が良かった。 日本の社会学を切り開いた人で、中南米インディオの話を絡めつつ「これからの社会」を考える視点を与えてくれた。 そこに何か「パス」を感じた。 そのあと、國分さんの『目的への抵抗』を読んだ。 同じテーマがあった。 正確に言うと「同じテーマ」などなく、別のことが書いてある。 でも自分の中では「これもそうか」と感じた。

その「謎」は、たしかにそれぞれの本にあるかもしれない。 人類の歴史において、何か大きな節目が来ている。 自分たちはその目撃者かもしれない。 無限に伸びる時間軸という思い込みが通用しなくなる時代。 その到来を予感している。

ただ「同じだ」と感じるのはこちらの都合である。 作者たちが示し合わせたわけではない。 こちらにある「謎」が二つの作品を繋ぎ合わせている。 その「謎」を、こうして文章として書き留めること。 たぶんそれを「楽しい」と僕は感じている。

まとめ

「書くこと」は近代以前では特権階級にしか許されなかった。 庶民に読み書きのスキルは与えられなかった。 そのほうが支配しやすいからだろう。

今はそのスキルが万人に与えられている。 本当に運がいいことだ。 このこと自体をうまく「楽しみ」に組み込むことはできないだろうか。