Jazzと読書の日々

iPadを筆記具として使う方法を模索します

スクリプトを書くということ

スクリプトを書くことは文章を書くこととどう違うだろうか。

ここしばらくそのことを考えてみたのですが、どうも違わないんじゃないか。 同じところが多いんじゃないか。 そういう気がしてきました。

だとすれば、まず似ているところを挙げてから、そのあと異なるところを考えるのがいいだろう。 そう思いついたので、似ているところを書いてみます。

スクリプト

スクリプトを作る段階は大きく分けて四つあります。

困る時期

まず、何も困ったことがなければスクリプトを作りません。 「わぁ、面倒くさい」と困る体験が前提としてあります。 問題意識を持つとも言える。

問題意識は、自分の中の「こうしたい」が実現を阻まれたときに起こる。 要するにわがままです。 そのわがままを大事にする。 それが最初の段階です。

調べる時期

困ったことに「困ったこと」は漠然としています。 自分の中の欲求をうまく言語化する必要がある。 欲求は複雑です。入り組んでいる。 ひとりで考えてもほぐせない。

その場合はネットを活用します。 ほかの人が似たような状況をどう感じているか調べる。 あるいは対話する。 「こんなこと思ったんだけどどう思う?」と尋ねてみる。

「調べる」は「知る」を語根にしつつ、調律のニュアンスもある。 ほかの人の考えを知るのは、自分の考えを調えるためです。 「そうだなあ」と思ったり「それは違う」と感じたり。 他人に合わせたり非難したりするためではありません。 自分の欲求を明確にすることが「調べる」です。

作る時期

調べる時期を通ると、何をしたいか見えてきます。 どうすれば欲求が満たされるかのゴールが見える。 ゴールが見えて初めて「方法」を組み立てることができます。 ほかの人が作ったスクリプトを素材として利用できる。 それ以前では利用できません。

他人のスクリプトはその人のためのものであり、自分とは無縁に見えます。 目的地が見えたとき、素材が「私を使え」と囁いてきます。

使う時期

作ったスクリプトはたいてい役に立ちません。 どこかでつまずきます。 ゴールが欲求を叶えることはない。 ここで自分自身が「読者」になる。 スクリプトのユーザーとして「作者」に要望を出す。

「読者」も「作者」も、どちらも自分です。 自分が分裂して対話する。 それが「推敲」です。 形が整えられ、だんだんと「使えるもの」になっていく。

この推敲に終わりはなく、どこで切っても過渡期です。 時間とともに変化していく。 熟れていくこともあるし、環境が変わることもある。 なので、いつも「中途半端だなあ」と思いながらブログに公開しています。

文章を書くということ

スクリプトを離れ、普段の「何かを書く」を考えても、この四つの段階はあります。

一般に「アイデアを集める」が最初に挙げられがちですが、これはすでに「調べる時期」に入っているでしょう。 「アイデアが出る」という場所に、ぼんやりとした「欲求」が隠れている。 生活の中の違和感を掴んでいる。

その違和感を調べながら、問題自体を浮かび上がらせるのも「書くこと」です。 あらかじめゴールを設定し、そのためのハウツーを並べるのも「書くこと」です。 四つの段階のどこかを取り上げても文章になる。 なので「書くこと」はスクリプトを作ることの一部であり、全体です。 人はみなスクリプターである。

では、何のスクリプトを書いているのか。 文章を通して何を記述しているのか。

それは「自分」です。 趣味のことであれ、社会の問題であれ、そこに書き表されるのは「自分」です。 書くまでは不明瞭で輪郭のない存在。 その「自分」をスクリプトとして描いている。 そして終わりはない。 いつまでも過渡期であり続ける。

まとめ

うーん、大きく出たな。