Jazzと読書の日々

iPadを筆記具として使う方法を模索します

質問駆動型ライティング

ブログとは、まず「問い」を作ることである。

哲学な日々

文章を書くとは独り言ではない。文章を書くとは人に読んでもらうことである。じゃあ、どうすれば読んでもらえる文章になるか。そのことが書いてありました。野矢先生の本の「論理的に書くために」の章。なるほどなあ、と思ったので覚え書きします。

質問駆動型

質問を相手にさせる。そこがポイントです。読者に質問をしてもらい、その疑問に答えるとき、文章を読んでもらうことができる。当たり前のことだなあ、と思ったけれど、あまり意識してなかったかもしれない。

もちろん読者が文を読むのは文章が書かれて公開された後ですから、質問を受けてから答えるのではない。疑問を喚起するように書き、そこを一緒に考えていくということですね。こちらの疑問に共感してくれた人が読者になり、それ以降に続く文章に目を通してくれる。そこに賭けるわけです。

いい文章は質問が質問を生む文章である。小説や漫画の登場人物が、作者の意図を離れ、自分自身で動き始めるとき。小説や漫画の場合は、そうしたストーリーになったときにリアリティが出てくる。

論文の場合は、質問がひとりでに展開を始めるとき。それは書き手も五里霧中に放り込まれるけれど、アクロバティックなサーカスの綱渡りを見るように、絶妙なジャズのインプロヴィゼーションを聴くように、たぶん楽しい。

ときには楽しくないかもしれないが、少なくとも書く自分自身は驚きの連続で、自分はこんなことを考えていたのか、と楽しい。そうなるのは、最初の「質問」が動き出すことに限る。すると、いい質問を発見することが大事なんだろうなあ。

接続詞の活用

質問が動き出すにはどうすればいいか。それは接続詞を使うことである。接続詞は書き手の「答えよう」という姿勢の現れである、と。

そういう視点はなかったかもしれない。ちょっと考えてなかった。接続詞がないほうがカッコいいイメージもあったかもしれない。あんまり使わないようにしてました。アウトライナーに頼りすぎると、接続詞が抜けてしまいがちなんです。

でも、接続詞は息遣いが出る。これでは伝わらないか、と焦れば「たとえば」と具体例に話が進む。込み入ったところに入り込んだか、と後悔すれば「つまり」と要約を示したくなる。

たしかに「つまり」は、正確な意味での「要約」ではありません。自分で立ち位置が見えなくなったとき「自分はどこにいるんだ? ああ、そうか。今ここなんだ」と確認のために「つまり」と区切ることが多い。

読みにくいんじゃないか、と気にして削りがちだけど、むしろ読者とともに「問い」に振り回される体験として使いどころがあるような気もする。そういうことかな。

まとめ

ただ、質問に答えるだけだと一問一答になりやすいとあるけれど、それは文章としては単調なものかもしれないけど、個人的にはそれを乗り越えるだけの力量も才能もない。力量も才能もないなら、一問一答型のブログでもいいかな。

テーマをつないで交響楽に仕上げるのは難しい。小さなテーマの寄せ集めでも、自分の書きたいことが見つかる方向に展開すれば、それはそれで「作品」ではあるのだから、それでもいい。まあ、自分を過信してもしかたないからね。

気軽に書いてこその「モブログ」です。