生きている間に読むべき本が三冊ある。 そのうちの一つがニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』です。 ちなみにローマ字では「tsaratwusutora」で打てます。
快読本
とはいえ、すぐ原典には行きません。 解説書を読みます。 ツァーガイドなしでは現地で迷子になるでしょう。 最近『ツァラトゥストラ』の邦訳を出された森一郎先生です。 ガイドとしてこんな適任な方はありません。
ツァラトゥストラ(長いので、以下「ツァラさん」と略す)はゾロアスター教の教祖ゾロアスターのことです。 ドイツ語読みで「ツァラさん」。 てっきりツァラさんが悟りを開いて「超人」になるのかと思ったら、そうした話ではありませんでした。
ツァラさん自身は一般の人間です。 「そのうち人間を超えた存在が出てくるぞ」という直観を得て、それを広めるために旅に出ているわけです。
サルが進化して人間となり、その人間が進化して「次の存在」になる。 ダーウィンの進化論をそのまま信じたら、そうした解釈になりますね。 その「次の存在」が「超人」。 人間はそれまでの過渡期に過ぎない。
そもそも人間に比べたら動物の方が賢いです。 とくにお気に入りはワシとヘビで、何かと登場し、意気消沈するツァラさんを励ましてくれます。 ワシは空を飛び、些事に巻き込まれず俯瞰的に眺める「気高さ」を持っている。 ヘビは脱皮を繰り返し、古い自分を脱ぎ捨てていく「知恵」のシンボルです。 人間は彼らにはかなわない。 畜群である人間は、狭い「自我」に囚われ、それを更新することができない。
そんな人間を超える存在が現れつつある。 ツァラさんはこの物語で「預言者」の役割を演じています。 フーテンのツァラさんです。
気前の良さ
では「超人」とは何でしょう。 実はツァラさんもわかってないみたいで「こうかな」と言っては「いやいや、そうじゃない」と否定して、いっこうに埒があきません。 でも、その連想の中で少しずつ姿が見えてくる。
その姿は「リベラル」と呼んで良さそうです。 「リベラルアーツ」のリベラル。 「自由主義」とは違います。 「人文主義」のニュアンスの方のリベラルです。
この言葉は古代ギリシアの「自由人」に由来しています。 「自由人」を表す「エレウテロス」が、ラテン語に移すとき「リベラル」と訳されたからです。 リベラルアーツは「教養によって人は自由になれる」という信念に裏打ちされている。 教養とはそういうことです。 だから「自由人」とは何かが問われねばなりません。
この「自由人」から「エレウテリオテス」という言葉が派生しました。 「自由人らしさ」というニュアンスですが、そのまま「気前の良さ」という意味になります。 これは『ニコマコス倫理学』にも出てきて、 正義や節制、勇気と並んで重要視されている。
なぜアリストテレスが力説するのかわからなかったのですが、語源が「自由」に関わるなら納得です。 人に欠かせない徳目に「自由」がある。 そして古代ギリシアで「自由」を論じることは「気前の良さ」を考えるのと同義でした。 自由な人はケチ臭くない。
ツァラさんでも、第一部の最終章で「気前の良さ」が考察されています。 「惜しみなく与える徳」とタイトルがついている。 見返りを求めず、持っているものを喜んで他者に分け与える。 これが「人間」と「超人」を分つ目安になっています。
「自由」をそこから考える。 なるほどなあ。
まとめ
ワシとヘビが好きなんだから、その時点で見えているんですけどね。 「超人」はワシとヘビの徳を兼ね備えています。 そういうこと、書いてないけど、そう読めます。
気高く知恵のある存在。 常に自分を刷新し続ける生き方。 それが行動として表れると「気前の良さ」になるわけです。 物惜しみしないところに「自由」はある。 見返りを求めると身動きが取れない。 それだと「報酬の奴隷」になってしまう。