Jazzと読書の日々

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「気がかり」について

「気になる」と「気にする」は似ているけれど異なる。

「気になることがあって眠れない」という人に「気にするな」とアドバイスしても無駄だろう。 「気になる」は「気にしよう」と思って気になっているわけではない。 自分の意思ではどうしようもない。 勝手に「気になる」のである。

「気にする」は主体的に決意しているが、「気になる」に主体が含まれない。 おのずと気になる。 これは「気にする」が能動態で「気になる」が中動態なのだろうか。

気がかりシート

「気になる」にはいいこともあれば悪いこともある。 興味津々の「気になる」もある。

考えてみると「好奇心」の curiosity も「心配事」の care と同じ語源を持つ。 どちらもラテン語の cura に由来する。 ハイデガーも言及した女神クーラの「気遣い」が好奇心にも心配事にもなるのだろう。 もちろん「癒し cure」にもなるし precure にもなる。

ネガティブな側面は「気がかり」と呼ばれる。 これを分析してみようと思う。

例によってキャンバスに二軸を配置してみる。 「気がかり」を分類するとき「自分のこと/他人のこと」の軸と「過去のこと/未来のこと」の軸がある。

この図を考えてみよう。

それぞれの象限は当てずっぽうである。 未来の気がかりは「不安」であるし「心配」でもある。 人のことを不安に思うこともあるし、自分のことで心配することもある。 分類できるわけでもないが、仮に「自分に関する気がかり」を「不安」、「他人に関する気がかり」を「心配」と呼び分けることにする。 ここだけのルールと思ってほしい。

過去も怪しい。 「怒り」で括ってみたけれど、内容的には「不愉快」だったり「不満」だったりする。 「傷ついた」という体験もあるだろう。 イラッとさせられたことをいつまでも考えてしまう。 それが心にへばりついて剥がれない。

理不尽な目に合わされて「あの態度はなんだ?」とプリプリしている状態である。 根に持つわけだ。 そうしたタイプの「気がかり」は「過去の他人」の話である。

もちろん自分に「怒り」を感じることもある。 「なんであんなことをしたんだろう」とくよくよ考え込んでしまう。 ただこうした「自分への怒り」は「後悔」の範疇でいいだろう。 「後悔」は「自分」に感じることはあっても「他人」に感じることはない。 不思議なことだが「他人のことを悔いるタイプ」の気がかりは起こらないようである。

どう使うか

この図をどう使うか。

二つの軸に分けれそうだと思っただけで、これを使うと「気がかり」が消えるわけではない。 ただ自分の「気がかり」がどこに位置するかの確認はできる。 そのとき「箱の外」に出ているんじゃないかと期待する。

「気がかり」が循環するか考えてみたが、循環しそうな気がする。 他者への「怒り」は「あのときどうすれば良かったか」と「後悔」に移行するし、「後悔」は「また同じ場面に出くわしたら」の「不安」に変わる。 「不安」は「きっと他の人に笑われるだろう」と「心配」に変化し、「心配」が今度は「そういえば前にも似たようなことがあった」と過去の「怒り」を想起させる。 四つの象限を「気がかり」はぐるぐる回る。

このループには際限が無い。 これにハマることを「堂々巡り」というのだろうか。 そうかもしれない。 でも、全体のループでなくても「怒り↔後悔」の小さなループもある。 「気がかり」から抜け出せなくなるのはそんなときだろう。 反復は深まらないが、循環は話が流れて淀みが消える。 そうした違いはありそうだが、どちらも抜け出せない。

「過去」は済んでしまったことだし「未来」は予測不能である。 それに思い悩むことに出口はない。 行動の起こしようがないからである。 それなのに思い悩むのは何か意味があるのだろうか。 そういう疑問も湧いてくる。

これを「意味がない」と切り捨てるのも、どこかしっくりこない。 眠れなくなるし体調も悪くなるけれど、そこまでして「気がかり」が起こるのは、何かの役に立つからだろう。 メリットがあるから消えていかない。 そうした可能性を考えてみる。

しまった感

それぞれの象限にあるのは「行動」である。 何か「してしまったこと」を後悔する。 「やってしまうだろうこと」が不安になる。

この「してしまう」は能動態ではない。 「自分の意思に反して」という側面を持っている。 「しまった」と感じることが「気がかり」になる。

では「意思のコントロールから外れた行動」が「気がかり」を起こすのだろうか。 そうかもしれない。 中動態的事態への警戒感がある。 「気がかり」があると気が張る。 緊張感が高まり、違和感があればそこに意識が集中する。 交感神経にスイッチが入る。

ということはタイミングが合えば「気がかり」は有効活用できる。 集中すべきときに用いればいい。 いや、そうだろうか。 そんな都合よく「気がかり」が湧くわけでもなく、肝心な場面になると、疲れてしまって集中も事切れてしまう。 その方が普通だ。

「気がかり」は当人が疲れ切るまで継続する。 そこから導かれるのは「気がかりは疲労感を起こすのが目的ではないか」という仮説である。

変なところにたどり着いた。 疲れるために思い悩む? いや、そんなこと考えたことがなかった。 思いつく範囲でもそうした理論を聞いたことはない。

ただ経験的にはそんなこともあるかなと思える。 疲労感がぴったり来ないなら飽和状態という感じだろうか。 「気がかり」をいつの間にか忘れてしまう。 悩み切ると、悩んでいることがホワイトノイズになって背景に退くのである。 そこに脱力が訪れる。

それもふと起こる。 悩んでいることがバカバカしくなる。 ということはメタ水準で「悩んでいること」という対象化が行われたわけだ。 そのとき「箱の外」に出ている。

それが「気がかり」の効能かもしれない。

まとめ

「自分が悩む」から「悩みが悩む」に変わると消える。 主体性に囚われているうちは「気がかり」は消えていかない。 それが「してしまう」への対処法と思われる。