Jazzと読書の日々

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ブログで「日常学」をはじめよう

envelopes|600 Backlink | Photo by Joanna Kosinska on Unsplash

ということで「ブログとはシステム理論である」という結論になりました(ような気がする)。 どういうことかって? どういうことでしょう?

日常を科学する

ライフハックについて書くことも、本を読んだ感想を書くことも、「システムについて考える」です。 自分が生きているシステム、つまり「日常」を研究の対象にしている。 これを「日常学」と呼んでみたい。 文房具なら「文具日常学」、パソコンなら「電脳日常学」って感じでしょうか。 取っ掛かりは自分の好きなことから。

「変化」に敏感になるということです。 何かをしたら、ちょっと便利になった。 そうした「変化」ですね。 反対に「不便になった」でも構いません。 それもまた「変化」です。 「困ったことが起きた」も「変化」だし、「いつもと変わらない」も「変化」です。 それを研究対象にする。 日常には「変化」が満ち溢れています。

水を知る

「日常」は無意識です。 魚は水の存在に気づけません。 水の中で暮らしているからです。 あまりに身近で自然なことだからです。

でも、うっかり飛び跳ねすぎて水の外に出てしまう。 人間のガキンチョに釣り上げられてしまう。 そうしたアクシデントが起こると、チャンスが訪れる。 水の外に出たとき「水の存在」に気づきます。 「水とはかくなるものか」と感動にうち震えます。

もちろん、すぐ水に戻って構いません。 というか、戻らないとエラ呼吸できない場合もあるでしょう。 ただ「ひどい目に遭った」で終わるともったいない。 そこに「無意識を垣間見る体験」があります。 これが「日常学」になる。 そういえば「体験」のギリシア語 empeiria は「境界に飛び込む」という意味だったかな。

別に、毎回身体を張る必要はありません。 もっと簡単で楽しいことにも「変化」があり、その「変化」を通して「日常」の構造を知ることができます。 日頃から「小さな変化」で練習していたほうが、いざという「大きな変化」でもパニックにならず「日常学」ができるでしょう。 「メメントモリ」とまでは言いません。 「変化」との付き合い方を身につけておいて損はないように思います。

日常学宣言

日常学の目的は、変化を通して日常を研究することです。 「日常」は普段の目には見えません。 でも肥沃な大地のはずです。 鳥飛んで空広く、魚行きて水深し。 「日常」を知らないと自分の活動範囲を狭めてしまいます。

方法は、便利なことや不便なことから「変化」を見つけます。 「変化」に目を奪われず「日常」に目を向けます。 変化の前では何を「当たり前」と思っていたか。 変化の後ではその「当たり前」がどう変わったか。 そこにフォーカスを当てていく。

考察は、ブログに書くことです。 日記でも構いません。 とりあえず文章にしてみる。 他者の目を通す。 「日常」は浜辺の砂のように、すぐ「穴」を埋めてしまいます。 起こったはずの「変化」を忘れてしまう。 見えたはずの「日常」が霧に覆われ隠れてしまいます。 書くことは、そうならないための防衛手段です。

なぜ日常学なのか

初めは些細なことです。 アプリを記事に書くとき、ネットでそのアプリについて調べるじゃないですか。 すると「このアプリはこれができない。あれもできない」と書いてあったりする。 この気持ちがわかる。 たしかに「できないところ」が気になってしまう。 そういう自分がいます。 ただ「できない」を並べても仕方ないな、とも思う。 ここがモヤモヤする。

そのあと、スクリプトを調べたりすると、その「できないこと」をカバーする方法が見つかったりします。 できるようになったり、別のアプリで補ったりできる。 そんな記事をよく書いてますね。 このときチラッと「できないと思っていた自分はなんだったのだろう?」と思ったのです。

「できるべきだ」と思って、それで不満になったんじゃないんですよ。 「できないはずだ」と、変な先手を打っているんです。 「できるのがいいことだ」とは思ってないですが、わざわざ「できないはず」と決めつける必要もない。 「できること」をできるように使えばいいだけです。 そこを考えていたら「日常」に遭遇した。 「できないことで傷つく自分」に気づいた。 「でも、傷つくって何が?」とも思ったわけです。

ここあたりは煩雑になるので割愛しますが、「心が傷つく」という表現がどうもヘンで「昔は、家名が傷つく、だったものが、家制度の崩壊とともに、心のことに移行したらしい」と今は考えています。 阪神の震災後「PTSD」とともに広がったみたい。 (用例としては昭和30年に久生十蘭が使っているけど)

そう考えたらスッキリして、あまり気にならなくなりました。 この社会に組み込まれている「スクリプト」に気づくことができた、という感じでしょうか。 誰が悪いわけでもないけど、ところどころに「呪い」が落ちています。

まとめ

なので、何かについて書くときも「日常」に目を向けると面白い展開があるかも、と思うし、 もし「合わない」と思ったら、続けなくてもいいと思う。